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『風立ちぬ』/やっぱりファンタジー

 前評価は色々あったが、やはりこの『風立ちぬ』も、従来の宮崎駿作品と同じくファンタジー映画だと言った方がいいだろう。ナウシカやラピュタ、ハウルを観て本気で戦争や文明社会のあり方を考察されることがないように、この作品も戦争や当時の日本の社会問題が本気で考察されるものではない。風立ちぬの詩にあるように、見えぬものを周辺の木々のざわめき感じ取るというコンセプトがあるようだが、当時吹き荒れていたのは暴風雨だったはずなのに、それを描くにしては今作はあまりにもそよ風ぎた。過去の作品としては、現実の大和朝廷のある日本を舞台にし、マイノリティへの差別や自然と人との相容れなさといった多くのテーマを詰め込んで、そして一言「生きろ」ととてつもなく真っ直ぐなテーマを投げかける『もののけ姫』がこれに近い。

 しかし一方で、この作品にはこれまでの宮崎駿の作品と大きく異なるところがある。それは彼がインタビューで度々言及していた「失われた可能性」が存在していない点だ。これまでジブリの主人公たち、特にヒロインは圧倒的なシステム、権力の前に立ち向かう勇敢な女性ばかりだった。立ち向かい、乗り越え、そして些細であっても世界に変化をもたらし「失われた可能性」を取り戻すような、そんな健気で強い女性たちだったが、今作のヒロインの菜穂子は彼女たちとはまるで違っていた。彼女が選択したのはいかに立ち向うかではなく、いかに受け入れるかだった。彼女にとってすでに死が避けられぬなら、あとは死に方の問題だったのだ。死からの抵抗から死の受け入れ、いきなりこんな趣旨替えをされては、宮崎駿に長年連れ添った鈴木プロデューサーがプロモートとはいえ「宮さんの遺言だ」と発言してしまったのも仕方がないと言える。そしてこの「抵抗」するのではなく「受容」するという物語のあり方が、この作品の評価を大きく二分してしまっている大きな点ではないだろうか(庵野の声に関しては言われすぎているので自分はスルーするとして)。

 なぜなら生き物にとって「抵抗」することは自然なことで、生命が脅かされたならどんな虫けらであってももがき「抵抗」するという、そこには無条件の必然性、リアリティが存在する。しかし一方で「受容」するということには無条件の必然性は存在しない。ゆえに観客がそこにリアリティを感じるためには、なぜ彼らがその選択をしなければならなかったのかという文脈が必要となってくるのだが、この物語にはその主人公たちが選択した「受容」にリアリティを持たせる文脈が不足していたのではないか。彼らが最後まで病気と戦う選択をしなかったのはなぜだろうか?結核は当時致死率の高い病気だったが、この病気から生還した人間もまた存在した。しかし彼ら、いや宮崎駿はそうしなかった。抵抗し続ける選択であっても、美しい人間の生き方を描けるにもかかわらずだ。確かに愛しい人と最も濃密な時間を過ごしたいという欲求は文脈の一つになりうるが、それが全てではあまりにも感傷的すぎるのではないか。結果として、宮崎駿の用意した文脈の一本に上手く乗ることができたならば、その人はこの物語にとことんハマることができるが、その網目からひとたびこぼれ落ちた人にとってこの作品はとんでもない駄作となってしまっているのだ。都合よく男女が再会し結婚し結核で死にかけで美しいという使い古されたツールを前面に押し出した根拠ない健気さを持つ女の横で好き勝手やっているメカマニア、そんな構図に落ちかねないのである。

 それだけではない。果たして、この物語は堀越二郎と堀辰雄という二人の人間を組み合わせた形になっているが、その必要性はあったのかという疑問も残る。片方だけを重点的に描いたほうが、より説得力を持って描けなかっただろうか。飛行機製造のシーンは間違いなく美しかった。設計図から飛行の様子、事故へ至るビジョンを二郎がイメージする演出からは、きっと並外れた天才の風景はこんなふうに広がっているに違いないと思わせ、観客にその二郎と同じ天才の視点を共有させる演出のワクワク感は、決して飛行機マニアだけでなく楽しめたに違いないし、宮崎駿の独りよがりなどでは決してないエンターテインメント性があった。だが、その天才が作り出した美しい零戦が人を殺すという苦悩もより深く描けたはずなのに、それを最後に「一機も戻ってきませんでしたが……」と片付けさせているのが、この作品が他でもない「そよ風」に落ち込んでしまっているところだ。この作品のことをファンタジーだと前述したのは、ファンタジーならば許される文脈の不足と、戦争を「そよ風」で描いた現実感の無さがあったからだ。それが結果として、間違いなく美しく崇高なものと隣り合わせになりながらも、そんな文脈の不足から物語に乗れない、遠くで風でざわめく木々を眺めながらも、自分の体には風が一向に吹いてこない人たちに対し、ひたすらな後味の苦さを残す作りになってしまっているのである。

 この『風立ちぬ』は時代と人の成長によってこれからも評価が変わり続けるだろう。受け手にも文脈があり、そしてそれは常に変化していくからだ。ある人は後々に素晴らしい作品だと言い、ある人は一時の自身の熱狂に首をひねるかもしれない。評価が良い意味で変動しないナウシカやラピュタと違い、そいういう点ではやはり宮崎駿の最高傑作だとして記憶されそうな作品ではある。

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