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思考する煙/『ハンナ・アーレント』

 アイヒマン裁判を大胆に解釈した知の巨人ではなく、身近な問題における政治の、そして思想的な立場を明確に示すとき、避け難く生じる周囲との軋轢に葛藤する一人の女性、この作品に登場するハンナ・アーレントはそういう人間として描かれていた。作中でユダヤ人迫害に関しては述懐のみにとどめられ(もしかしたら予算の関係かもしれませんが)、哲学界のトラウマともいえるハイデガーのナチス礼賛が前知識のある文系へのサービス程度での比重でしか登場しなかったのは、物語の焦点がまさにそこだったからであろう。そしてこの映画はそうであるからこそ、まさしく今、この国で見られるべき作品なのである。

 物語の冒頭では、ハンナの周りにいたのは議論と人間関係は別問題だと割り切れる程に教養の高い人々だった。彼らの関係はハンナの友人の一人である米国人メアリ・マッカーシーが、彼らの白熱した独語での議論に戸惑いを覚えながらも、議論の終わりにはまた談笑できるようなものだったのだが、ハンナがアイヒマン裁判を傍聴し雑誌“ニューヨーカー”に論文を掲載した後からそれは崩れてしまう。あまりにも彼らにとってセンシティブだったアイヒマン裁判を、感情抜きに分析したハンナに対しユダヤ人の友人達は「冷酷で傲慢な女」「君の友人アイヒマン」と言い放ち攻撃し始めるのである。政治的な発言をする時、友は離れ場合によっては家庭すらも壊れてしまうことさえある、たとえそれが崇高であり意義のあるものであってもだ。自らが所属していたユダヤ人コミュニティを敵に回してまで発言し続けたハンナには、3・11以前は「飲みの席で政治と宗教(あと野球)の話題は出してはならない」と言われてきたものの、ツイッターなどのSNSを中心としてその禁忌されていたものが積極的に話されるようになってきたこの国の現在を生きる人々にとって強く共感するものがあり、この映画が東京ではただ一館、岩波ホールでの上映であるにも関わらず連日の満席を記録しているのはそういう経緯があるのではないだろうか。

 また、その苦悩し葛藤し続けるハンナ・アーレントの描き方も、決して単調ではなく実に躍動的だった。「思考する」という、どうにも映画的には退屈になりがちな行動を、煙草を持ち出すことによってハンナの「思考の運動」を白煙で卓越に表現している監督・マルガレーテ・フォン・トロッタの演出手腕は見事なものである。ラストの8分間の講義はハンナの煙草のスタートダッシュから始まり(普段の講義では、ハンナは時間を決めて途中で吸うようにしていた)、一気にアイヒマン裁判の、アウシュビッツの、そしてホロコーストにおける悪の陳腐さを看破せしめるのである。論敵達が睨みつける中、まるで対向車線で繰り広げられるカーチェイスのように固唾を飲み込ませる程の躍動感に溢れた講義は、観客に思考へと促す熱い爪痕を残さずにはいられない。※

 振り返るにハンナに降りかかったのはひたすらな不幸だったのだろうか。いや、まだ彼女には米国人作家メアリ・マッカーシーとの友情が残されていたはずだ。議論嫌いであるにも関わらず、毅然とハンナの非難者に立ち向かうメアリの存在は、もしその立場故に自分の前から去る人間がいたとしても、真に良き友人は残り得るのだという、この物語の一つにして最大の救いだといえるだろう。

※岩波ホールのパンフを買えばシナリオがついてくるので講義の内容をいつでも再読できます。

https://www.youtube.com/watch?v=WOZ1JglJL78
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