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『ヴィオレッタ』凡庸に非凡を描くこと

1977年にモデルとなった写真集『鏡の神殿』で一躍世界的に知られることとなり、史上最年少でプレイボーイの表紙を飾った少女エヴァ・イオネスコ、しかし彼女は過激な写真集によって少女時代を失ったとして30年後、自身を被写体にして写真集を出した写真家の母親を訴えることとなる。この映画はそんな芸術とポルノ、母親と娘との関係の中で苦しんだ彼女の自伝的作品となっている。

 母と娘の確執、芸術とポルノの境界、「カンヌで議論を呼んだ」というふれこみでいかにも過激な内容を想像しそうだが、全体的にはとても平凡な作りだったように思う。序盤にエヴァ(映画での役名はヴィオレッタ)が母親に命じられて服を脱ぎ始めるときは内心「おいおい自分が母親訴えてんのに人様の娘は脱がせるんかい」と思ったのだが、その後は肩すかしのように抑えた描写にとどまり、また母親にポルノスターに仕立て上げられたという苦悩も、まぁ苦しいだろうことは描いていたが、いまいちパンチが足りない気がしてならなかった。なんとも踏み切れないアクセルの数々で釈然としなかったものの、しかしそこは本作のパンフレットを読むと合点がいく。

「やっと歩き始めたばかりの子供にヌードでポーズをとらせるなんてとてもできなかった。(中略)暴力だってもっと酷くできたかもしれない。映画のこういった側面を頭では理解できるけれど、実際に画面には映ってはいないの。私の限界はそこだった。自分の傷とは距離を置いているのよ。」

 彼女はここで傷と表現しているが、私見としてはその傷の正体は芸術的であるということ、非凡を渇望するということとも置き換えられるように感じた。芸術家でありながらあくまで常識的な視点で芸術と距離を保ち撮り続けるエヴァ、振り返るにこの作品全体に漂う平凡な視点こそが彼女の葛藤のあらわれだったのではないだろうか。

 30年経っても未だ乾ききっていない生傷に触れぬように映画を撮り続けたエヴァだが、それでも一つだけしっかりと掴み取り撫でさするような視点があった。それは母を見つめる娘の冷徹なまなざしである。その当時、ヨーロッパのみならず世界中に衝撃を与えた母イリナ・イオネスコへの賞賛は、現代の我々の想像をはるかに越えたものがあっただろうし、芸術家に対するリスペクトが日本よりもはるかに強いフランスでは彼女のを毒親と切って捨てることなど到底出来はしない。しかし、娘エヴァが劇中でアンナとして描く母はそういった偉大なるアーティストとしてではなかった。そこに描かれていたのは、親からの愛情の欠落で承認欲求をむき出しにし、自分たちを理解しない人間を凡人と罵るものの、その実男に振られたならばどうしようもなく凡庸な女としての一面をさらけ出す痛々しい女性であった。反発するヴィオレッタに対して「バタイユを読みなさい!」と言い聞かせる芸術家( )の母の姿は実に滑稽の極みである(バタイユに何期待してンだよ)。そしてこの母というフィルターを通して、我々はエヴァがこの傷の痛みとどう向き合っているかを伺いすることができるのだ。

 陳腐さと凡庸さと低俗さ、芸術というのはただ崇高に輝かしいだけのものではない、それらの裏返しによって成立するものでもあるのではないか。母を厳しく描き、そしてエンドロールの寸前までその母から逃げ続け和解を拒否する少女の背中が、それを物語っているように思えた。

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