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甘詰留太とその作家性

甘詰留太はガチである、と言っておこう。この作家に関しては、ヤングアニマルやヤングキングなどの青年誌にも作品が掲載されて久しいので、名前は知らずとも絵を観れば思い当たる人間も多いのではないだろうか。まぁ絵柄やきわどい格好の女の子が多数目に付くことから察しがつくように、元来甘詰はエロ漫画家だ。しかし、彼の作品をそこらへんに転がっている有象無象の、ティッシュのごとき使い捨てのエロ漫画と同一に考えているのならば、あなたは人生の10分の1を損しているといってもいいのである(いや分母はもっともっと高いかもしれないし、知ったところで得をするわけでもない)。
甘詰を印象づける作品としては、まずは2001年に刊行された彼の短編集『満子』(成人コミック)を挙げるのが適切であろう。登場するからまれ役の女性キャラクターが「満子」で統一されたこの短編集は、一話目の『豚汁』からぶっ飛んでいる。物語の舞台が少年院ということで女性が全く登場しない場所のはずなのだが、甘詰はここでとんだウルトラCをぶちかます。なんと少年院で飼育されている豚を擬人化してからみのシーンを創り出したのだ。

え……なんで?

いや、おおかた少年院に収監されている少年達が、溜まった性欲を豚で解消しているというような都市伝説を聞いたのだろうが、しかしそれにしたってそんなことをする必然性が無さすぎる。いくらエロティックに描こうとも豚は豚なのだ。漫画描写的には少女だが、行為に及ぶ少年達には明らかに豚に見えているし、何より少女達は鳴き声しか発しない。そして最終的に少年達の行為は刑務官が目撃するところとなり、豚は処分されて少年達の夕食に、豚汁となって出てきてしまうのである。物語は一際豚達を可愛がっていた少年が、愛ゆえに「彼女達」を独り占めしようと、豚汁を嘔吐しつつも一人でかき込みたいらげたという説明で幕を閉じる。なんとも読後感の悪さばかりが際だつ作品だ。なぜ甘詰はこんなエロ漫画としての用途を度外視したような短編を描いたのだろうか?その答えは巻末の作者あとがきに明るい。甘詰はそこでこう綴っている。
「鬼の形相で物を食う男という微妙に間抜けで迫力のあるシーンを思いついたから」
SN3P00160001.jpgSN3P00170001.jpgまた「焼きうどん~」に見られる「父と娘のセックスをただ見せられる主人公」と巻中の『川音』の「田舎の渓流で少年達が白痴美人の少女を輪姦する様を茂みから覗き見しながら、その仲間に加われずに興奮しまくる主人公」という、妄想をいくら膨らませてもセックスできない、童貞を拗らせた作家のエッセンスを濃縮したような短編の数々は、自身の中の闇=童貞性を積極的に凝視することによって初めて描き得た作品だ。勿論こんな甘詰の恥部を晒されたところで、大凡我々は得するところなどはない。何より間違いなくオナニーなどは出来ない。それどころか作家の体液を当てつけられたような不快感を感じるだけなのだ。まるで当てこすりのピンポンダッシュ、人の家の塀にクソを投げつけるが如き所業である。
しかし、オカズにするために男性を徹底に排除し(エアファック、触手etc)、同時にエロのネタ化がトレンドであるエロ漫画界において、この甘詰の存在は救いであるともいえる。前者はひたすら閉じた輪の中で自己完結的な自慰行為のオカズとなり、後者はネタにして距離をとって、さも開いているかのような装いをする。そんな戯画化したエロが跋扈する中、甘詰はそれら紛い物とは一線を画している。再度言おう、甘詰留太はガチなのだ。上述したように、こっ恥ずかしくて凡百な人間が凝視出来ないような恥部やコンプレックスに対しがっぷり四つに組んでしまう甘詰、その作品には、本来のエロ漫画とは読んでて恥ずかしいものであるという後ろめたさを読者に想起させる力がある。もちろん、距離を置いてみれば甘詰も他の多くのエロ漫画家の作品も妄想の産物にすぎない。だが、その妄想にどれほど自分の「童貞」を動員し、自分にとって真実にしているかが、甘詰という作家際立たせているのだ。ガチンコで人間の内面に迫り、作中に多くのモノローグの為のスペースを割く甘詰のスタイルは、セックスシーンのないはずの『ナナとカオル』(ヤングアニマル連載)の登場人物の台詞の一つ一つに臭気を帯びた湿気を与え、それは剥き出しの性器を如才なく描くよりも遙かに卑猥で読者は甘詰の本を読んでいるという自意識自体に耐えられなくなってしまうほどだ。甘詰に比べれば、成人漫画雑誌に一話くらいは必ずお目にかかるであろう「でっかいおち○ぽ気持ちい~~」だとか、脳味噌のネジをマ○コに置き忘れてきたような台詞などは遥かに稚拙なのだが、そうであるが故に甘詰の本はベッドの下どころではなく、厳重に、母親に決して見つかることなく保管しておかなければならないし、「鳴子ハナハルって絵が綺麗だよね」だとか、エロ漫画に理解を示しているようなサブカルガールであろうとも、甘詰の作品を真面目に読んでいる男などはちょっとご遠慮したくなることは間違いない。
この『満子』以降の単行本でも甘詰の拗れた童貞という病は留まるところを知らず、 2003年に刊行された『キミの名を呼べば』に収録された同題名のメインの短編と『エンジェリックハウル』にも「セックスをしてしまったが故に喪失をしてしまった」主人公というのが、これまたモノローグたっぷりに登場する。どうやら甘詰にしてみれば、セックスは単なるエンターテイメントではなく、一つの喪失であり自身の一部が損なわれるということであり、決してお気楽極楽なものではないようだ。なにか、作家はよほど屈折した童貞時代と性体験を経てきたのだろう。しかし、「気になるあの娘の気持ちを確かめるためにレイプしてみたら両思いだったのでこれから付き合いますめでたしめでたし」などという、世界崩壊のカウントダウンが聞こえてきそうな話が平然と雑誌に掲載される昨今においては、他者との付き合い、そして一つになることの如何ともしがたさに真っ向から向き合う甘詰の態度が、実は誠実であるということが分かるのではないだろうか。
SN3P00150001.jpg
人と人との間に生じる恥部と暗部を改めてエロに結びつけ、エロを消費することへの後ろめたさを復興させる甘詰。それは決して、読者にエロが悪徳なのだということを意識させたいからではない。敢えてそうすることによってこそ、その先には更なる愉悦が生まれるからに他ならないからだ。この魂を汚しながらの自慰行為のために、作家は意識的にか否か、身を削りながら漫画を執筆しているようにさえ感じられる。ある者はその作品への共感ゆえに病んだ微熱を下腹部に感じ、またある者は嫌悪感ゆえに蔑んだ視線を甘詰の作品に放つだろう。だが、その何れの感覚も作家の望むところなのではないだろうか。荒れたファンの吐息を想像し興奮し、冷えたアンチの侮蔑を妄想し再度興奮する、それが甘詰という作家に他ならないからだ。
甘詰留太の作品を読了した後、貴方はエロ漫画が単なる自慰行為のオカズだけではない、別の可能性を持ったジャンルだということに気づくだろう。もちろん、気づいたところでどうという事でもないのだが。

※勝手な偏見が過ぎているのは重々承知です。


キミの名を呼べば (MUJIN COMICS)

キミの名を呼べば (MUJIN COMICS)

  • 作者: 甘詰 留太
  • 出版社/メーカー: ティーアイネット
  • 発売日: 2003/10/03
  • メディア: コミック



満子 (MUJIN COMICS)

満子 (MUJIN COMICS)

  • 作者: 甘詰 留太
  • 出版社/メーカー: ティーアイネット
  • 発売日: 2001/06
  • メディア: コミック



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『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』 アヴァンギャルドは死なない

完璧な映画である。たとえアートに関して何の知識もない人間であっても、この映画を観終わった後には「いったいアートとは何だろう」と、批評家のように自問せずにはいられなくなる程に観客を感化する。小難しい芸術理論は出てこない。まるでテンポのよい冗談混じりのロードムービーを観るかのように、主人公ティアリーとともにストリートアートシーンを旅して、気づいた頃には観客はそうなってしまうのだ。
完璧な映画である。しかし、完璧というものは概して如何わしい。果たして、この映画は一体どこまでがドキュメンタリーなのだろうか。ストリートアートに興味を持ったカメラオタクのティアリーが、その道の天才といわれるバンクシーに出会う。ティアリーはバンクシーを含めたストリートアーティスト達の映画を制作しようとするが、しかし彼には映画監督としての才能がなく、バンクシーとの監督交代の後、バンクシーの軽い提案で素人ながら芸術活動に着手しだす。そこからこの映画は単なるストリートアーティストのドキュメンタリー映画ではなくなった。ティアリーは走る。名前をMBW(ミスター・ブレイン・ウォッシュ)と改め、コンセプトを人に指示するだけで実績もないにもかかわらず、彼は大がかりなショーを手がけていく。そのMBWの勘違いっぷりと暴走っぷりに巻き込まれた周囲は困惑する。バンクシーが「ティアリーの絵には価値がない」と言い、同業者が「MBWとは二度と仕事をしたくない」と冷ややかな眼差しを向けるその一方で、MBWのショーは予想外の結末を迎えるのである。
完璧すぎる映画だ。時系列、機会、結末、そしてそれを撮る目線。まるで、「こうなることが初めから分かっていた」人間の手によって作られたような、そんな印象すら受ける。この映画を含む一連の社会現象が、バンクシーの壮大なアート作品(社会そのものに落書きをするという!)の一部なのではとも思えてくるのだが、シスの暗黒卿のようなシルエットで変声機を使って話す彼の本当の表情とその意図を、我々が知る術はないのである……。

http://www.youtube.com/watch?v=dZEWHlNEyH8&feature=related

http://www.uplink.co.jp/exitthrough/top/index2.php


Wall and Piece


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『コクリコ坂から』 息子の武器は共感性、だと思う。

絵画を鑑賞するときに額縁の中だけでその絵を判断するのか、それとも額縁の外部も作品の一部として鑑賞するのか。もし貴方が前者のやり方でしか映画を観ないのであれば、『コクリコ坂』は驚くほどに退屈な作品になるかもしれない。同じく日常を描いた『思ひでぽろぽろ』、『耳をすませば』以上にファンタジーの要素を排したこの作品は、小学生ならば劇場で寝落ちするのではというほどに平坦な作りだからだ。しかしもし貴方が後者ならば、かつてこれほどまでにジブリ作品で思索することがあっただろうかというほどに、『コクリコ坂から』には一見平凡な作品という呈を様していながら、その中に含まれているエッセンスは驚くほどに深いということがわかるだろう。
映画の主役は一九六三年の横浜の高校生たちということで、「ああ、また昔はよかったんだよ的なジブリ作品かぁ」と言われる方もいるかもしれないが、少し待ってほしい。今回監督を務めているのは宮崎駿ではなく、その息子、吾郎氏なのである。戦後や高度経済成長学生闘争を経験せずに、多感な青春時代をバブル景気のただ中で過ごした彼がその時代を描く、その意味を観客は考えてみるべきではないだろうか。
例えば、取り壊しが検討されているカルチェラタンを存続させるかどうかの学生討論会で風間俊が大見得を切るシーン、岡田准一は吾郎氏に「黄金バットのようにやってくれ」と演技指導されたのだという。このシーンは吾郎氏が新たに加えた、いわば彼オリジナルのものだ。特別な意図のあるはずのここで、彼は戯画的に演じてくれと注文した。これは実に監督吾郎氏の世代としてのこの作品に対するスタンスを表す象徴的な演出だろう。彼はこのシーンで、未だ記憶として残している世代の多いあの時代を、「昔話」として再生産したのだ。演出以外にも、シーンの一つ一つを観ると分かるのだが、吾郎氏の作り出した六三年はどこかフワフワしている。海と俊、水沼の三人が都内へ行くシーンの、高度経済成長前の狭い道とゴミゴミした交通網は、公害をまき散らす未成熟な日本の一部でありながら妙なファンタジー色がある。まるで、『天空の城ラピュタ』で描かれた、荒廃した天空都市を思い起こさせるような風景だ。小熊英二の『1968』を指して「あの時代は未だ歴史になっていない」という書評が新聞に載っていたが、学者のワークに先んじて作家のアートがそれをやってのけるとは何とも感慨深い。そしてこの描写の先にあるのは、インタビューで宮崎親子が繰り返し言う「失われた可能性」(ここではあり得たかもしれない過去と解釈した方がいいのかもしれない)の、父とは違った追求の仕方だろう。
怒り狂う王蟲に真っ向ガチンコを挑んだナウシカ、意中の男と心中覚悟でバルスったシータ、ハリウッダーもビックリのドライビングテクニックを披露したリサ、駿氏が描く失われた可能性を取り戻す女達は到底私たちが真似できないものだ。しかし『コクリコ坂から』のメルは、取りあえず部活棟の掃除から始め、それでもだめなら都内まで出かけて失われた可能性を取り戻した。大げさなアクションなどではない。彼女のひたむきな努力は、世界を変革するには日々の生活の中で当たり前のことを疎かにせずきちんと積み上げていくことが大切だということを、そして当たり前のことがあるということがいかに尊いかということを教えてくれる。才能のある親父の理想への到達方法は高すぎて実現できないもののように思えてしまうが、才能のない(吾郎氏は父親にこう言われ続けていたらしい)倅のそれは、私たちの拳の握り方、力の込め方一つで到達できるような希望がある。この親子は同じ所を見ているが、その手段においては大きな違いがあるといえないだろうか。宮崎駿氏は息子の処女作『ゲド戦記』の鑑賞中、劇場を出ていきタバコをふかしスタッフに「世界を変える気で作品を作らないとダメなんだよ!」とプリプリ怒りながら胸の内を吐露したが、「コクリコ坂」の鑑賞後にはそれはある種のすれ違いであったのでは、とも思われてしまう。
またこの今回の『コクリコ坂から』には、意図してか否か、「ジブリ定番」といえるようなシーンがことごとく登場しないのも特徴的である。空を飛ぶシーンはもちろんのこと、力を込めたときに髪の毛や衣服が逆立つこともない(前作の「アリエッティ」ではスピラーが逆立ってましたね)。何よりも驚くべきは、宮崎駿がこだわっていたはずの食事をするシーンがないということだ。「コクリコ坂」の主人公メルはガス窯に火をつけ米櫃から米を取り出し、黙々と下宿先の住人の食事を作る。人のために何かは作るが、彼女が消費するという描写は見ることがなかった。彼女がものを食べるシーンといえば、俊に渡されたコロッケぐらいではなかっただろうか。戦後の貧しい時代を生きた父が、キャラクター達に存分に(それこそ歯茎をむき出しにして)食事をさせたにもかかわらず、満たされた時代に生きた息子は食事を作ることに重点を置いたのだ。何とも示唆的な作りのような気がしてならない。
時代は円を描いて繰り返すが、それは同じところを繰り返すループではない。微妙に軌道を変えながら廻る螺旋のようなものだ。そしてその回転はそのうちに、初めとは全く違う場所に円を描く。今回の『コクリコ坂から』は少しづつずれ始め、やがてオリジナルへと向かおうとする、スタジオジブリの新しい時代の兆しではないだろうか。天才の子に生まれながら敢えて父の時代に切り込み自分の時代を作ろうとしている吾郎氏の、次なる挑戦に期待したい。

※前回の『ゲド戦記』といい期待ばっかりしていますが
http://kokurikozaka.jp/

http://www.youtube.com/watch?v=c2hBnA-R4uw
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『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』 実写になるとどう頑張ってもコスがダサいマグ二ートー様

塩ビのフィギュアを持った子供達が遊んでいる。フィギュアのポーズも色も既に決められているが、子供達は独自の世界設定で物語を創りキャラクターの台詞をはく。『X-MEN ファーストジェネレーション』はそんなごっこ遊びを大人がやったような映画だった。「X-MEN」という長年アメリカで親しまれた、それこそ多くの作家が介入し手垢のついたコミックを、設定を壊すことなく、しかし出来る限り大人の知恵を振り絞ってリアルな物語にする。その最大限の工夫はそれを例えにしたが、ごっこ遊びの範疇を遙かに越えていた。その業には近年コミックの実写映画化を乱発している日本の映画界に是非とも見習ってほしい所である(ドラゴンボールは失敗したけれど)。キューバ危機という人類を滅亡の一歩手前まで追いこんだ事件が、実は少数の悪のミュータントによって起こされたという話なのだが、国家間の対立には凡そ入り込む余地のない個人個人の葛藤が、兵器並の力持つミュータントが橋渡しとなって巧く物語りに組み込まれているのだ。
劇場予告では「「邪悪」と「正義」は分かれてはいなかった」とナレーションが入っているが、観客は映画館を出た後に自問するだろう。では「正義」と「悪」とは何なのだろう、と。映画の構成上、都合の良い悪役こそ存在したが、チャールズ(後のプロフェッサーX)、エリック(後のマグニートー)、そしてアメリカ軍とソ連軍はそれなりの行動の根拠を持っていた。人類がミュータント達を攻撃する決断さえ、彼らが少人数でキューバ危機を起こした存在だったからこそなのだ。
人類に報復を始めるエリックに、裕福な家庭で育ったチャールズは言う。
「あの戦艦に乗っているのは善良な兵隊達だ。彼らは命令に従っただけ、何も知らないんだ」
しかしナチスに両親を殺されたエリックは言う。
「そういう奴らが俺を虐げた」
同じ宿命を背負いながらも、違う環境に生きた二人だった。お互いに「友」と呼び合いながら、彼らは袂を分かつ。一体、私達がミスティークやビーストと同じ立場だったならば、どのような選択が出来ただろうか。当初は巡り会ったことに喜び合い言葉を交わした彼らミュータント達は、異端であることを誇りに思うか戸惑うかの違いに端を発し、今回以降の二部作で命を賭した闘いを繰り広げることとなってしまう。後付的な要素が強いが、上手く先のシリーズの前日談として説得力のある映画である。
この世の何が御し難いか、それは間違った者と正しい者が争うからではない。まさにこの映画が描くように、そうせざるを得なかった者達同士が争うからだ。映画を鑑賞した後、エリックに看破された「そういう奴ら」である観客達は、実在しないミュータント達に思いを馳せながらこの世界での選択することの難しさ不条理さを痛感するのではないだろうか。

http://www.youtube.com/watch?v=RtN-_mHntrQ

http://movies2.foxjapan.com/xmen-fg/

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『ハート・ロッカー』 元嫁に軍配

中立的な立場の取り方には二つある。一つは両方の言い分を聞き、両方の立場に立って考えることだ。そしてもう一つは両方を否定的にとる、両方の立場に立たないというやり方である。そして映画『ハート・ロッカー』は、この「両者の側に立たない」というやり方で作品に客観性を与えている作品だ。劇中に登場するイラク人は、一体誰がテロリストなのか分からない。携帯電話を扱っていると思いきや実はそれが起爆装置だったという冒頭のシーンをはじめ、建物からこちらを見る人間の視線一つ一つに、少しでも奇異な動きをする人間の一挙手一投足に観客はストレスを感じることだろう。イラク人を突き放したこの作品は、まずイラク側には立っていない。米軍の爆弾処理班と共にイラクを回る観客は、次第にイラクの人々に対し異常なほどの警戒心を抱くことになるだろう。また一方でイラクに駐屯している米軍人達の働く様は、内容さえ私たちの日常のそれとはかけ離れてこそいるが、モチベーションはどちらかというとそこら辺の肉体労働者のものに近い。主人公達の乗る装甲車が、イラクの少年達から笑顔で石をぶつけられることから、彼らが歓迎されていないのも見て取れる。良かれと思った行動した主人公の英断は主人公補正がかかることなくスカり、巻き添えを食らった仲間からは罵倒されてしまう。そもそも、自分が処理した爆弾の一部を「人の命を奪いかけたものだ」という理由でコレクションする主人公には、アメリカの正義などを主張する気は微塵も見あたらない。このように両方の立場からこの映画は距離を取っているが、実はこうやって客観性を保とうとするのはなかなかタフな作業なのである。なぜならば、両方の側に立たないということは両方の側から非難されるということでもあるからだ。事実この映画は米軍側から「米軍に対する敬意が欠けている」と問題視される一方で、アンチブッシュ派のミュージシャンが楽曲を提供しているにもかかわらず「米軍のプロパガンダ映画だ」という非難を受けた。いったい、監督であるキャスリン・ビグローはこの両方から非難される映画で何を描こうとしたのだろうか?

この映画が描こうとしたもの、それは戦争映画が古くから脈々と描いてきた、戦争の狂気だといっていいだろう。しかし、それは新しい戦場における新しい狂気ではない。この映画が用意する狂気の矛先はもっと別のところにあるのだ。全く気を許すことの出来ない戦場、頼りにならない主人公の義憤、そしてそれを映す手ぶれのカメラ。主人公は一ヶ月の任務を終えて本国へ帰るのだが、本来は安寧の地として映されるべき故郷での日常は、戦場と違い、手ぶれの無い映像で描かれているにも関わらず、その急激な映像の変化に観客は「酔い」を感じてしまう。それまで観客が安定として感じていた日常が、映画を見続けた後には一転して不安定なものとして「体感」させられてしまうのだ(この演出を『アバター』のJ・キャメロンの元妻がやってのけたというのがまた面白い)。極めつけは主人公がシリアルを買う、整然と商品が陳列されたスーパーマーケットのシーンだろう。何一つこちらの生命を脅かすことなく、また何の血も通っていないような規格製品の作り出すシンメトリーの奇妙な壁は、これまで私たちが享受していた平穏な生活が、実はスポットライトの当て方を変えるだけで歪(いびつ)になってしまうのだということを突きつけた。両方の立場と距離を取り、私たちの日常まで突き放したこの映画は、見る者の足場を悉く破壊してしまったのである。なんとういことだろうか、ビグローが用意した暗器は、絶対安全な客席にいた筈の私たちの喉元にこそ突きつけられていたのだ。戦場などではなかった。私達の生きているこの戦争が存在する世界では、正気など簡単に狂気に転じてしまうものなのだと、私達は逃げ場のない狂気の世界を生きているのだと、彼女はこの作品で宣告していたのだ。

新たな手法で狂気を描いたキャサリン・ビグロー、次回作はウサマ・ビン・ラディンの米軍による暗殺を題材にするのだという。次はいったいどんな暗器を彼女が使用するのか。期待されてやまない。

http://www.youtube.com/watch?v=J22-8Bu4mHw


ハート・ロッカー [DVD]

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アフタヌーン四季賞 アフタヌーン2011年7月号付録

『アオムシス』 Lea

マンガは幸福なメディアだ。小説などは書評やネームバリュー、その他編集や出版社、本屋の宣伝努力によってようやく読者の食指が動く。映画でさえ、前情報がなければ数分間の魅力的な劇場予告があって、初めて観客に劇場へと足を運んでもらえる。一方のマンガは、作者の絵に特色や魅力さえあれば、一瞬で大量の情報を見る者に与えて読者を獲得することができるのだ。そして、今回アフタヌーン四季賞で四季大賞を受賞した『アオムシス』の作者・Leaもその画の力を持っているといえるだろう。四季賞の表紙にはヘッドフォンをかけた女性が無表情で街を歩いている様が描かれているだけなのだが、女性の表情、服の着こなし、そして独特の質感を思わせる建物は、Leaの世界を微風のように読者に感じさせてくれる。もし彼女(女だよね?)の作品が本屋に積んであれば、何の前知識がなくとも本を手にとる人間も少なくないのではないだろうか。作品自体は主人公が助けた青虫に誘(いざな)われて不思議な世界に迷い込むというファンタジーなのだが、そこにいたるまでの、とりあえず田舎から出てきた女性の、居候としての日常の物憂げさもLeaの画力によって十分引き立っている。淡々とした物語の進行ではあるが、彼女(男性だったらごめんなさい)の画で作品には独特のリズム感が息づき、白黒のはずのコマの一つ一つには水彩画のような鮮やかで優しい色使いを感じてしまう。きっと自分が彼女(以下略)の担当編集者だったなら、様々な方向性で作品を描かせたくなってしまうはずだ。今回のようにファンタジーに取り組んでも良いし、ただ生活を描くだけでもこの作家は優れた作品を描くことができそうだからだ。
何かが解決したわけでも変わったわけでもない。相変わらずのフリーターの居候で、決意を新たにしたわけでもない。気だるいまどろみのような夢を見た後、主人公は再びその延長の、まどろみのような現実を歩き始める。しかし妙な爽やかさ、心地よさが作品全体には宿っている。担当編集のコメントに「後味の悪いラストシーンにはマイナス10点」とコメントされていたが、一読者としては逆にこの終わらせ方がより良く現在の作者の魅力を引き出しているように思える。
まだ随所には粗さが目に付くし、アフタヌーンのような大きな雑誌ではそれはさらに目立つかもしれない。しかし作者は今回の投稿が初めてとのこと、不安要素どころかさらなる期待が膨らむばかりだ。


『おから』 イシダナオキ

マンガを面白く引き立てるにはどうしたらよいでしょうか?そうですね、もちろん個性的なキャラクターの登場は欠かせません。目のクリっとした萌っ娘魔女にアクセントを加えるためにドデカい日本刀などを持たせてみましょう。血を流したりあわよくば首チョンパーしたりで読者の度肝を抜く工夫だって必要です。誰も見た事のない世界にオリジナリティ溢れる特殊能力、口癖に加えて熱い名言なんかをネームに入れることでより一層マンガは個性的で面白いものになりますよね。ハイ、ここまでに同意してくださったアナタ、いっぺん豆腐の角に頭をぶつけてください。
アフタヌーン四季賞で四季賞を受賞したイシダナオキさんは、そういったものとは無縁に、作品は人を引きつけることが出来るのだということを教えてくれます。美術畑出身の確かな画力に加え、取材で仕入れた情報の選択、何をどう使うかを吟味し過不足なく短編に組み込んだこの『おから』(またタイトルに捻りのないのが良い)は、プロのプロたる技術をアナタにみせてくれることでしょう。ただでさえのび太よりも個性のなく、主に焦って口をだらしなく開けて汗をかいているだけの、BLでいえば総ウケを担当していそうな主人公は、作中では一言も話すことがないのですが、その他の雄弁なキャラクターに味付けされ物語の進行とともに個性を獲得していきます。ラストの彼が油揚げを頬張るシーンの何と愛らしいことか。1ページで彼を引き立てる関西弁の営業マンの前後関係や性格が分かってしまう演出も大した技法です。これらの作家の技術によって、頑固オヤジに豆腐づくりの指南を求めるというだけの話がエンターテイメント作品として成立しているのです。
簡潔で委細で、しかし多くの情報やテーマを読者に伝えることに今回の作品で成功したイシダナオキさん。先述のLeaさんとは違った方向で、前者がセンスで多作を期待できる作家だとしたら、彼は技術で多作を期待させる作家といえるでしょう。簡単な学術マンガから壮大なSF作品まで、やはり自分が担当編集者ならば描かせたくなってしまうかもしれません。何とも玄人好みの作家ですが、それが吉と出るか凶と出るか。とはいえやはりこちらも新人(自称オッサンだけど)、のびしろは間違いなくあるでしょう。


月刊 アフタヌーン 2011年 07月号 [雑誌]

月刊 アフタヌーン 2011年 07月号 [雑誌]

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/05/25
  • メディア: 雑誌



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A面 『ブラック・スワン』 ちょっとしたN・ポートマンvsW・ライダーの子役出身対決

トゥーシューズが縫われ、恐らく使用者のであろう足にあわせて形が整えられていく。新品とおぼしき靴底には刃物で傷が付けられる。粛々と、しかし息づかいを感じさせる様に、一つの無機物に刻々と生命が刻み込まれていき、観客はその呼吸に自らのそれを重ね合わせる。前作『レスラー』でも使用された、アロノフスキーの「痛み」を使用したリアリティの共有は、この『ブラック・スワン』でも冒頭の針(刺す)と刃物(傷つける)の使用により効力を発揮した。それで十分だった。ほんの一さじのリアリティがあれば良い。それだけで物語は俄然説得力を帯びるのだ(また逆も然りだが)。更に彼は、物語の進行と共に大胆にではなく細かに主人公ニナの肉体を壊していく。指のささくれ、深爪に爪割れ、そして掻き毟った肌、その肉体のダメージはあまりにも観客に見に覚えがあるものばかりだ。擦りガラスを引っかいた音を聞く様に、精神に鳥肌が立つ。何よりも壊れていくのはあのナタリー・ポートマンである。美しい容姿にハーバード卒の教養、ボランティア活動とエコ活動にまで熱を入れるという、才色兼備の優等生だ。そんな彼女がブラックスワンになる為の自己破壊的な努力は、芸術に身を投じるにはこれほどまでに自分を差し出さなければならないのかと観客の息を呑ませ、優等生が崩壊する様は尋常ではない緊張感を劇中に漂わせる。果たして、狂気に足を踏み入れてまで完成させた彼女の「完璧な」演技は、栄光の拍手を舞台の観客から、悲痛な眼差しを映画の観客から浴びることとなる。

ひたすら息苦しいこの作品で、芸術のために魂を削り取った人々を描いたアロノフスキー、しかし彼へのインタビューはまた違った視点を我々に提供してくれる。

「僕に言わせれば、メソッドアクター(カットがかかっても役に浸りきる役者)はナンセンスだ。所詮、演技なんだよ。カメラが回り始めたらスイッチをオンにすればいいだけのこと」

……なんとも軽快なフットワークではないか。

http://movies2.foxjapan.com/blackswan/

http://www.youtube.com/watch?v=wKVHm-hFmB0
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B面 『レスラー』 ひとつの芸しかできない子馬が楽しく自由に野原を駆けるのを見たことあるかい

この映画の主人公・ランディはもっとうまく生きることができたのかもしれない。いや、ほんの些細なきっかけがあればきっとできたはずだ。しかし、彼はそうしなかった。引退の時期を逃し、寂れた町の体育館での身を削る流血プレー、唯一の家族である娘からは憎まれ、心を寄せるストリッパーとはすれ違いを起こしてしまう。だが、それはほんの些細なきっかけがあればそうはならなかったはずだし、やり直しだってきいたのだ。それにもかかわらず彼は引くことのできないリングを選んだ。それは決してレスラーの誇りからではなかっただろう。「苦痛なのは外の現実だ」と言い残しリングに上がった彼にそうさせたのは、自暴自棄にも近い、子供じみたイジケ心といったほうがいいのかもしれない。悪く言えば世間との折り合いの悪さからの逃避ですらある。『ブラック・スワン』のニナとは違い、彼の転落は望むものではなかった。だが、いったい誰が彼を笑えるだろうか?男は誰でもその人生でリングに立つ(うわ、クッサ)。しかし、それは栄光のリングではない。それは仕事だの夢だのと、果敢な挑戦を装った現実逃避であり、そこで当てられるスポットライトは実に滑稽だ。男達は皆リング、居場所を求め、貧者の一灯のごとき悲愴さで戦いに望むのだ。勇敢さなど後づけでしかない。しょうもなく全てを失ったランディのファイトは、物語の背景以上に、そういった私達の人生の背景が重なるが故に、どうしようもなく切なく愛おしいものとなるのである。
そしてこの転落した男・ランディを描くのに、リアルに転落したミッキー・ロークを起用するというのもまた素晴らしい。『ナインハーフ』でのプレイボーイっぶりでセックスシンボルと認知されたにも関わらず、その後のイミフなボクサーデビュー、しかもすけすけパンツ着用で腰どころか肩も入ってないような猫パンチを繰り出し、果ては八百長疑惑まで囁かれてしまうというお粗末さ。ミッキーの転落はその後も留まるところを知らず、整形失敗にメタボ体型をゴシップ誌に撮られるわ、とりあえず運動と言えば坂を下り落ちてるだけなんで、そのうちネタにもならなくなってしまったほどだった。しかしだ、もはやどん底に落ちたと思いきや、次第にミッキーは何か妙なものを見せ始める。例えば『ドミノ』でキーラ・ナイトレイの先輩バウンティハンターを演じたミッキーだが、そのスクリーンに映っていたのは整形に失敗した顔ではなく、深い人生を刻んだ含蓄のある男の顔だった。その様は、かつては金ピカだったジッポが、使用されることで色はくすんだものの、逆にアンティークとしての独特の、人工的には決して造れない魅力を放つのにも似ている。『レスラー』でさもミッキーが突然カムバックしたかのように論じる人間がいるがとんでもない、彼のカムバックの為のポテンシャルは着々と吟醸されていたのだ。そしてミッキーはこの映画で説得力の塊となった。荒れた肌、歪んだ顔、皮膚の弛んだ、かつては張りのあったのだろうボディは、パイプ椅子に腰掛けうなだれるだけで場の雰囲気を造りだしてしまう。当初は主演としてはニコラス・ケイジの起用が予定されていたのだが、アロノフスキーが周囲の反対を押し退けミッキーを起用したのだという。そのため制作費を600万ドルに減らされ、公開日に封切した映画館は全米でたったの4館だったというが、彼のキャスティングに間違いはなかった。フットワークの軽さに加えて芯の通った映画作りをするとは、何ともプロ意識の高いことを伺わせてくれる監督だ。
この映画をジャンル分けするならば、これはプロレス映画、それも汗と涙と血とゲロにまみれたプロレス映画だ。そしてプロレスとは、バレエとは違った形での肉体言語による芸術だということを貴方はこの映画で知るだろう。DVDで二度観る時間のある方は、古舘伊知郎の実況を脳内で加えながらラストを「観戦」していただきたい。

「おおっと、今ランディがコーナーに登った!これは?フライングボディプレスか!?いや、これは違う!!腕の角度が違うッ!!これはッ!!かつてマディソンスクエアガーデンを熱狂させたッ!!ランディ“ザ・ラム”ロビンソンの、リアル・アメリカンの必殺技!!「ラム・ジャム」だッッッッッ!!!今まさに!!20年前の今日、ジ・アヤトラーを下した羊の角がッッッ!!!時を越えて再びアヤトラーに突き刺さる~~~~!!!!」

最後のカットで映画を止めてはならない。胸が引き裂かれる程の悲愴と興奮の坩堝の後、スタッフロールで流れるプルース・スプリングスティーンのエンディング・テーマが醸し出す、激しい射精の後のような倦怠感の心地良さもこの作品の一部だからだ。差別的であろうとかまわない。美しき転落と堕落、男のみに許された境地がそこにある。

http://www.youtube.com/watch?v=TD7hq_PpgtM









レスラー スペシャル・エディション [DVD]

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  • 出版社/メーカー: NIKKATSU CORPORATION(NK)(D)
  • メディア: DVD



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『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』 何かのさなぎだったんじゃない?

岩崎夏海の著作『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』、略して「もしドラ」。高校野球の女子マネージャーが、ドラッカーの『マネジメント』を参考にして野球部を強くするという、もう本当に、ただそれだけの話なのである。この他にも女子校のブラスバンド部がドラッカーを読む話なんてのもあるし、いやはや、小田原ドラゴンに「その実、味がマグロだった」と看破され一時の勢いは衰えたにみえるが、まだまだこの国の女子高生への親和性は高いのだということを伺わせてくれる。

肝心の内容になるが、「小説」という扱いになってはいるもののこの作品には文学的な要素は全くないといっていいだろう。優れた修辞表現、比喩表現も読ませる為の構成の工夫も全くない。淡々と只出来事が流されているだけである。実はこれは既に出版物として形になって世に出回ったものの、完成を見ていない「物語の素」、「シナリオの原本」なのだとみた方がいいのかもしれない。例えばだ、主人公みなみの幼なじみ夕紀が入院している理由、病名だが、作中には一切でてこない。何の病気だったのか何が悪かったのかにはノータッチなのである。とりあえず「病状が軽くない」らしく、「何かの数値が下がればいい」らしく、その結果として何か大変なことが起きてしまう。なんだか作品を作品化する人間にそこらへんの肉付けを丸投げした印象がどうも拭えない。またシーン毎のタイトルも、「みなみは『マネジメント』と出会った」「みなみは野球部のマネジメントに取り組んだ」と、とりあえず主人公のみなみちゃんが何かやってる事だけが説明されているだけなのである。しかし、事実この作品がアニメ化され、AKB48の前田敦子主演で映画化を果たしたことを鑑みれば、著者(秋元康の弟子というのがまた何とも…)の企みは成功しているといえるのかもしれない。

興味深いのは、巻末に同じダイヤモンド社の書籍が「みなみちゃんが本の中で参考にしたのはこの本です」と、ちゃっかり宣伝されていることだ。一つの書籍で別の書籍の販売を斡旋するというこの形式は、新しい商売の可能性だとみてはいいのではないだろうか?ならばこの金脈に倣って色々考えてみようではないか。オイラもお金が欲しいし……。




よしできた!『もしソフト・オン・デマンドでインターン中の女子大生がバタイユの「眼球憚」を読んだら』というのはどうだろう!?




……二匹目のドジョウはないのかもしれないな。


もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら

もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら

  • 作者: 岩崎 夏海
  • 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
  • 発売日: 2009/12/04
  • メディア: 単行本



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『ザ・ファイター』 渡る世間はビッチばかり

元WBU世界スーパーライト級の王者ミッキー・ウォードと、その兄でシュガー・レイ・レナードからダウンを奪った地元ローウェルの英雄ディッキー・エルクンドとの兄弟の絆を描いた、実話を元にしたボクシング映画。クリスチャン・ベールとメリッサ・レオがアカデミー賞でそれぞれ助演男優賞と助演女優賞を受賞したにもかかわらず、自分の職場の六本木ヒルズでは早くも公開が打ちきりになってしまった。同じくアカデミー賞で作品賞を獲得した『英国王のスピーチ』はまだまだ公開中だというのに。どうも世間では助演男優女優賞というものに対する評価が低いように思われる(何とももったいない。映画を出だし数秒観ただけで、ベールが賞を受賞した理由を観客は否応なしに叩き込まれるのだが)。確かに作品賞を受賞したのは「英国王の…」なのだが、この『ザ・ファイター』も負けず劣らず作品そのものが素晴らしい。いや、特に『ビッグ・リボウスキー』のバカっぷり、『ブロウ』の転落人生、『ロッキー』の爽快感、ゲッツ板谷の『板谷バカ三代』のぶっ飛んだ家族、この中の何れか二つが好きだという人は「英国王…」を差し置いて観ても損はしない。というか是非観るべきだ。

まず語るべきは、顔面をスクリーンに押しつけられるかの如き、米国下流の描き方だ。主人公の噛ませ犬ボクサー・ミッキーの家族達の会話、レクリエーションから、観客はスレた、鬱屈した心持ちになることは請け合いだろう。象徴的な会話がある。ミッキーの母親と姉妹が口喧嘩をするシーンだ。
母「おだまり、そんな口をたたく前に、貸した200ドルをとっとと返しなさい。」
娘「来週返すわ!」
母「先月もそう言ってたじゃない。私に口答えなんて早いのよ!」(うろ覚え)
なんたる下流か。たかが数百ドルの貸し借りで彼らには発言権の有無が決定されてしまうのだ。そんな下流のミッキーの家族達は決して頭が良いともいえない。ミッキーの母と姉妹は、ミッキーを家族から自立させようとするガールフレンドをビッチ呼ばわりして、彼の話を聞かずに彼女の家に乗り込み「ビッチ!ビッチ!(ていうかもうビッチしかいねぇ!)」と玄関先でキャットファイトを繰り広げてしまう。皆を止めにきたはずのお父さんは、嫁と娘達が乱闘しているのを見てビビって逃げてしまう始末だ。お兄さんのディッキーは弟の為に金を作ろうとしょうもない犯罪に手を染めて、兄を警官から守ろうとしたはずの弟が逆に警官に警棒で拳を潰されてしまう。もう絶望のあまり、見ているこっちがあしたのジョーのマンモス西のように「おしまいや、もう何もかもおしまいや」とうずくまりながら悲嘆してしまいそうなバカっぷりである。

しかし、このフリーフォールのようなバカ&転落を見せられながらも、観客は彼らを見捨てるようなことはしないだろう。なぜなら彼らには頭が悪いながらも、互いを思いやる愛情が溢れているからだ。家族以外を敵とみなす母は父親の違う6人(確か)の子供達を養っているが、「一人だけに愛情を注ぐわけにはいかない」とヤク中の長男も見捨てることはなかった。過去の栄光にすがりつくディッキーも弟が戦っている最中、伝わらないにも関わらず電話越しに必死にアドバイスを送り、養父は常に息子を気にかけて信頼できるプロモーターをミッキーに紹介するのだ(女の子だって息子に紹介する前に口説いといてあげちゃう!)。主人公のミッキーも、プロモーターの誘いを断り家族と歩んでいくことを選び続けた。そんなピッチャーの気の抜けたバドワイザーの如き彼らの愛は、しかし質が悪いながらも十分に観客を酔わせ心を潤してくれることだろう。彼らは愚かで直情的(確かにこれらは悪徳の一つである)ではあったが、決して悪人ではなかったことが観るに連れて分かるからだ。

バカ、下流、ビッチ、転落、家族愛と、感覚のジェットコースターに乗せられた後、終盤のディッキーのファイトの溜め込んだ鬱屈を発散するようかのような爽快感の何と筆述し難いことか。鑑賞中、他に観客がいなかったならば私は思わずガッツポーズを取ってしまっていたことだろう(というか軽く取りました)。『スポーツイラストレイテッド』に「過去10年間で最高のスポーツ映画」と賞賛されたこの『ザ・ファイター』、単純に計算するならこれほどの映画はあと10年観ることはできない。是非劇場に足を運んでみてはどうだろうか。

※もう公開終了してたらゴメンナサイ

http://www.youtube.com/watch?v=asY8M1dT5ps

http://thefighter.gaga.ne.jp/






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