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アフタヌーン四季賞『やまもとでんき』

メディアの独自性というものを意識した上で漫画に切に望むのは、如何に読者を「殺せる」コマを用意してくれるかだ。隠し持った短刀の如き、安心しきった心臓に突き立てる一コマ、さらにそれを演出する構成は、作家の力量を端的に示してくれる。
アフタヌーン四季賞2011年の秋のコンテストで大賞を受賞した『やまもとでんき』の武内香菜は、新人故の青さが見えるものの、その「殺し」を見事にやってのけている作家だ。商店街の電気屋を営んでいたと思っていた主人公の両親が、実は殺し屋ギルドの一員でしかも各々が他人同士だったという、どこかで聞いたことがあるようなストーリーなのだが、その「街の電気屋さん」が息子へ向ける顔を、一瞬で殺し屋のそれへと豹変させるコマの演出は、読み手の心臓に音もなく鋭利なものを突き立てる。
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しかしこのコマの最大の魅力は、わざとらしくないという一言に限るだろう。「豹変する」とは書いたものの、具体的な変化を明記しづらい程にそれはさりげなく、しかし間違いなくそのコマ一つで作中の温度は変化し、読み手の心構えは変化してしまう。そして作家はその微妙な温度差を以降で使い分け、主人公の苦悩、そして電気屋の両親との逃亡劇、さらに敵対組織との交戦までを描き上げるのである。凡庸な日常のテイストを一コマで逸脱させ、逸脱した日常をその他多くの凡庸なコマで日常に落とす。外枠は「殺し屋」という非日常的なものだが、内側の喜怒哀楽は「電気屋」の日常の延長線上に巧く保たせたままで、そしてそこから迎える結末の演出は、コマの一つ一つの魅力を生かすという、漫画でこそ描くことのできるものだ。
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もしかすると未熟さ故の単調さかもしれないが、これが意図的なものであり、さらに作家が自身の持ち味を応用する術を確固なものとすれば、作家の今後の創作の為の強力な武器となるはずだ。今回はエンターテーメント性を重視したようだが、ほんの僅かな歪みで逸脱する日常を描く手法は、ジャンル別の多作を期待させてくれる。

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『キック・アス』ハリウッド版芦田愛菜の脅威

この作品は映画というメディアの恐ろしさを私たちに楽しく教えてくれる逸品だ。そして、もしこの作品を単なる痛快エンターテイメントとして観てしまった人は、自身の映画というメディアに対する免疫の無さを心配した方がいいだろう。何の特殊能力を持たないヒーローオタクの少年が、セルフメイドのヒーローとなって悪と戦おうとする本作は、アクションヒーロー映画という装いを一皮剥けば、おぞましいまでのスプラッター映画であり、そしてロジャー・イーバートが批判するように「道徳的にふとどき」であること請け合いの作品だからだ。
映画を振り返ると、ヴィラン(悪役)であるマフィアよりも、ヒロインの少女、ヒットガールとその父、ビッグダディが殺した悪人の数の方が遙かに(ホントもう、遙かに!)多いことが分かる。マフィアが人を殺した描写があるのは一人だし、殺した理由も、組織のコカインをその人間がパクった疑惑があるという、マフィア的には納得の理由がある一方、ヒットガールとビッグダディはなぜその悪役を殺すのかが明らかにされない。もちろん、ビッグダディが警官時代にマフィアにハメられて、そのショックでヒットガールの母が自殺してしまうという痛ましい過去はあった。しかし、物語冒頭で最初の虐殺の憂き目にあう、アパートでコカインを使用している不良達は、単身乗り込んできたアホなコスプレイヤー、キック・アスに何度も帰る様に促していたのに、彼が発射式のスタンガンで不良を攻撃したために逆上するのである。そのマフィアが卸したコカインを使用する、警察に通報を入れればいいだけの不良達を、ヒットガールは長刀で問答無用に殺害していく。殺害シーンでは、児童番組向けの Dickiesの「banana splits」をパンク風にカバーした曲が流れ爽快感が演出されるが、ろくすっぽ武装していない不良達の殺されっぷりは、相手が少女とはいえ間違いなくカタストロフだ。
そもそもこの『キック・アス』の原作は、ヒーロー賛美の作品ではない。ヒーロー狂いのオッサンが、嘘の過去で娘を洗脳し、何の因縁もないマフィアを殺していくという、ちょっとしたアメコミヒーローのスプラッターパロディなのだが、そんな内容が物語の一部改変や演出、予告編の煽り、そしてカワイイ女の子を使用してビックリするほどの毒抜きが謀られ、エンターテイメントとして仕立てあげられているのである。これを映画の恐ろしさといわず何といえるだろうか。一体、どういった意図を持ってブラッド・ピットは本作をプロデュースしたのか、何らかの教訓を含んだ意図があったのだとは願いたい。そうでなければ、映画製作者達もヒットガールと同じく、無邪気な狂気の持ち主だということになってしまう。
「こまけぇこたぁいいんだよ!」と笑い飛ばすには、あまりにも薄ら寒い笑顔にならざるを得ない作品ではないだろうか。まぁそれが良いのだと仰るのならば、こちらとしては返す言葉がございませんが。


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『スーパー!』行き過ぎた邪道は王道になる

冒頭の悪趣味な残虐アニメもさることながら、触手の淫獣の登場や、『JUNO』でアカデミー賞にノミネートされたエレン・ペイジにヒーロー狂いの非常識な相棒を演じさせ、果てはコスプレ姿でオナニーまでさせてしまうなど、この映画、下品さには終始事欠かない。しかしこの映画は、話題になった同じくセルフメイドのヒーローを扱った『キック・アス』に下品さを添加しただけの(キック・アスも十分下劣だったが)二番煎じ作品というわけでは決してない。それどころか、紆余曲折を繰り返したものが逆にまっすぐになる、映画『スーパー!』は悪趣味なコメディが、巡り巡ってヒーロー物の真理を看過したような作品なのである。
バットマンやウォッチメンなど、多くのアメコミ作品が正義とはヒーローとは何かという自問をし続けてきた。もちろん、そのすべてを網羅しているわけではないが、多くのその問いが、更なる疑問を投げかけるだけで終わる一方で、この『スーパー!』は実に完結した答えを提示してくれている。主人公・クリムゾンボルトが悪者を成敗するシーンは、武器にスパナを使用するなど後味が悪く、叩きのめされる悪人は最初の方こそはヤクの売人等だったのだが、次第にエスカレートして、列の割り込みや伝聞で車に傷をつけたというだけの人間であっても、クリムゾンボルトと相棒のボルティーはこれまたスパナでぶちのめしていってしまう。そしてそんな狂った主人公にケヴィン・ベーコン扮する、売人の元締めが言い放つ。
「お前と俺の何が違うってんだ、お前もイカレてんだぜ!」
確かにそうなのだろう、いや、そもそも人はいくつもある狂気の中から正気を選び身につけて、そして一方で狂気を選んで排除し、それを正義や悪と名付けているだけなのだ。しかしそれを、すべてを承知の上で選びとった主人公のなけなしの「正義」は反論できないほどに誠実で真実だった。
いかなる正義も、どう後付けして如何に自分を救うか、その作業でしかない。それを人の弱さであると空しく思うのか、それとも人の強さであると頼もしく思うのか。冒頭で主人公が下手な絵で部屋に飾る「人生で最高の瞬間」は、うだつの上がらない中年男の自慰行為などではない。納得のラストはそれに気づかせてくれるだろう。


スーパー! スペシャル・エディション [DVD]

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『オンリー・イエスタディ』石原慎太郎

石原慎太郎の名から「老害」という言葉を思い浮かべる人間も少なくはないだろう。事実、青少年保護法や懲りない東京オリンピックの誘致、そして度重なる「三国人発言」などの問題発言に対しては多くの若者が眉をひそめる。石原慎太郎の書く文章は一行も読めないという人もいるほどだ。しかし果たして、毒にも薬にもならない、無益で無害な老人が闊歩する日本に一体何の魅力があるだろうか。そしてまた、老害が老害たり得るその所以を、どれくらい私たちは理解しているだろうか。石原慎太郎の「オンリー・イエスタディ」は、私たちにその老害というネガティブな言葉すら、一つの魅力の帰結であるということを教えてくれるエッセイ集だ。
twitterで散々悪口を書かれ、ネガティブキャンペーンが展開されたにも関わらず東京都知事に再当選し、さらに当選後も問題発言を繰り返したにも関わらずなおも支持集めるこの老人(もう80だしね)と彼が出会った更なる老害達(田中角栄、渡邊恒雄など)との魅力あるエピソードは、彼らを「老害」という言葉で括って捨ててしまっていた自らの不明さを恥じざるを得ない程だ。特に17章に収められた田中角栄のエピソードは、人間の魅力の何たるかを教えてくれる逸品といえる。石原慎太郎と一緒に青嵐会(田中角栄の金権政治を打倒するために石原慎太郎が結成した会)を組織していたある議員が、公認料を受け取るために田中角栄の事務所を訪れた際、田中角栄の国士としての熱い演出(私はそう読んだ)に感激し、その日の内に青嵐会を脱退したというエピソードや、田中角栄に媚びようとして青嵐会を非難した議員に対して、「政治家は信念にのっとってやればいいんだ」と窘めたという8章のエピソードなどは、まるで大昔の英雄の逸話を読み聞かせられるような面白さがある。まさに人格とは平面ではなく立体的であり、そして人の魅力とはステンドグラスの様に正と負を重ね合わせることによって、初めて味のある色を放つのだということを本書は教えてくれる。
石原慎太郎はオヤジである。そしてオヤジはガキに媚びては決してならない。物分かりの良いオヤジは、社長になった島耕作のように逆に胡散臭いものになってしまう。オヤジは堅物な説教を入れてナンボなのだ。本書の冒頭で石原慎太郎は言う。

 「男の性なるものはやはり仕事を通じての他者との関わり、それによって男として磨かれ成熟していくということに違いない。
 仕事から離れてしまった男の魅力、という以前に、男との男たる所以はどこにあるというのだ。
 何とか働かずに過ごしたいというのならそれは最早去勢された男というよりない。」

ありがちなオヤジの説教はしかし、強い自己肯定と一つの時代を担ってきた感性によって、文学の域にまで達する。

「人間の自我が容認されるようになった近代においての文学の主題とは、他者との相克以外何ものでもない。
近代における劇とは、個人の個性的現実と他者たちが形成する一般社会が規定している社会的現実との相克であり、往々にして個性的現実は他者との関わりの中で挫折する。

しかしなお男は、挫折しても敗北してはならない。」

私たちはこれからも「老害」という言葉で気に食わない先人達を非難し続けるだろう。だがその言葉の多用は、私たちの世代を次の世代から、毒にも薬にもならない、無益で無害な老人だと見なされる、最悪の末路を辿らせる入り口になりはしないだろうか。少なくとも、本書で取り上げられたかつての若者達の昨日は、そんな言葉では霞むことないほどに、燦然と光り輝いている。


オンリー・イエスタディ (幻冬舎文庫)

オンリー・イエスタディ (幻冬舎文庫)

  • 作者: 石原 慎太郎
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2010/04
  • メディア: 文庫



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『ブラック・ジャック創作秘話』2012年はこのマンガがすごい、らしい

いつの時代も人は天才の伝説を求める。それも優等生的なものではなく、時にはあまりにも人間味が行き過ぎて、俗悪さすらを感じさせるものを。例えばゴッホやアインシュタインのような、深い光と闇のコントラストのある天才の伝説。それは物語に奥行きを与えるだけではなく、凡人達に天才になることへの夢を気持ちよく諦めさせてくれる効能がある。尊敬されるようなことには誰だって努力するが、嫌われ蔑まれるようなことには、大凡の人間は自然と避けようとするものだ。故に、彼ら天才の修羅の如き生き方は、到底真似できるものではないのだと凡人に思わせる。
漫画の神様手塚治虫は、そんな物語にするにはうってつけの、修羅の如き天才の一人だといえる。手塚の人生は今回取り上げる『ブラックジャック創作秘話』以外にも、数度にわたってドラマや漫画の題材になっていることから、彼の人生が格好の材料であることがわかるし、そしてそういった経緯からも、この神様の光と闇は多くの人が知るところであるはずだ。当時人気だった水島新司には、初対面にもかかわらず「君は楽だよね、野球の経過を描いていればいいんだから」と言い放ち、別の作家の漫画を読んでいたアシスタントに、「その先生のところに紹介状送るから、明日からこなくていいよ」と、切り捨てようとするほどに嫉妬深かった手塚治虫。大風呂敷を広げて失敗を続け、締め切りを守らない彼に編集者は「うそ虫」「おそ虫」と陰口を叩いた。しかし、この『ブラックジャック創作秘話』に修められた、天才手塚にまつわる多くのエピソードは、そういったダークサイドを吹き飛ばしてあまりあるものだ。いや、むしろそれがあるからこそ、より一層手塚治虫が光輝くのではないかとさえ思わせる。
そもそも、手塚が新人作家を妬んだのは、手塚が常にチャレンジャーの姿勢を失わなかったからだ。内心誰よりも新人に注目していた彼は、貪欲にその技法を盗み、自分も新人として賞に応募したいのだとアシスタントに熱く語った。やなせたかしが「紛れもない天才」と脱帽するほどに描くのが速かった手塚がいつも締め切りギリギリだったのは、作品に対して異常なまでにクオリティーを求めたからだ。締め切り日に重なるように渡米したという無茶をしても、作業場の本棚にある自作の置き場所とその作中の構成を完全に暗記していた手塚が、電話でコマ割りを指示し、過去の作品のパーツの使い回しをして背景を描かせ、自分は飛行機内で漫画を執筆して作品を完成させたという話で完結してしまっては、もはや編集者は無茶苦茶されたというよりも、伝説の一部になれたのだから逆に感謝すべきだと言いたくなってしまう。
しかし、何故今になって手塚なのだろうか。私見だが、現代が容易に闇をもつ天才の出現を許さない時代だからというのが一つにはあるのではないだろうか。尾田栄一郎に嫉妬を剥き出しにした原哲夫が、「君の漫画って気楽だよね、人が死なないから」などと言ってしまったなら、ネットではなんと叩かれてしまうか分かったものではないし、問題のある作家など今の編集者サイドは簡単に干してしまうだろう。つまり現代人は、天才不在のこの時代に、既に完成し終えた伝説を消費するより仕方ないのかもしれないということだ。
「天才のいない時代は不幸である。しかし天才を求める時代は、もっと不幸だ」
まあ……、こういったありがちな言い回しで締めようとする私は、紛れもなく凡才なのだろうけど。




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『息もできない』韓下流

各国の映画祭で絶賛された韓国映画界の新人、ヤン・イクチュンのデビュー作。ちょっとした映画通を自認する人ならば、最低、名前くらいは聞いたことがあるだろう。あらすじはといえば、取り立てを生業とする、殴打が挨拶のような狂犬チンピラのサンフンが、心に同じ傷を持つ女子高生のヨニと心を通わせていく中で、他者に対する思いやりを取り戻していくという至って普通のモノなのだが、この映画が異彩を放つのは、韓国社会の描き方に痛みを感じさせる程のリアリティがあるからだろう。北野武が岩井俊二の『スワロウテイル』をさして、「あの監督は喧嘩したことがない」と言ったらしいが、ヤン・イクチュンは間違いなく喧嘩をしたことがあるし、やもすると激しい殺人の衝動を日常的に感じていそうな男ではなかということを伺わせる。それほどまでにこの映画、とにかく「痛い」。殴られるのはもちろん、殴ってる側の拳の痛みが伝わりそうな程に、「痛い」。さらに韓国社会の下流の描きかたの如実さによって、観る者の呼吸すらに痛みがともなってしまう。サンフンが取り立てをやる家はセットなどではなく、いきなりどこかの家に訪問してそのまま散らかった様子を撮らせてもらったかのような迫真の下流家庭っぷりだし、家族にDVをかますオッサンを逆にサンフンが蹴ったくりながら、「韓国の親父は最低だ!家ではどいつもこいつも金日成だ!」と叫ぶシーンから、韓国のことなどまるで知らない人であっても、この国の手触りを感じてしまうだろう。なによりこの下流は、底が見えないし出口も見えない。お互いに慰め合うように救いを求めるサンフンとヨニだが、正直どう考えても人格破綻気味で社会不適合者のサンフンがこの先上手くやっていけるとも思えないし、二人の終着点が明るくなる予感はまるでない。サンフンと落ち合う約束をするヨニの笑顔は、家族の前でも学校でも決して見せることのない愛らしいものなのだが、その笑顔も観客には痛々しくて仕方がなくなってしまうだろう。
下流の何が恐ろしいか。それは一旦そこに落ちたならば用意に抜け出すことが叶わないからだ。抜け出ようともがけば、逆に負のスパイラルのように泥寧にはまってしまう。物語のラスト、サンフンとヨニの弟が重ね合わされるとき、人はどうしようもなくその負の螺旋の縮小図を見せつけられるのである。傑作ではあるが最後は救いに逃げてしまった『ヒーローショー』と違い、この『息もできない』は容易な救いに逃げなかった。だからこそ、そこに果てしないリアルが存在する。
見ようによっては、この映画はただ単に韓国の下流社会を描写しただけの作品だ。しかしヤン・イクチュンの優れた刃物による鮮やかな切り口で、観客は文字通り、息もできなくなってしまうのである。

息もできない [DVD]

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『蟲師』柳田國男に読ませてみたい

SN3P0074.jpg雑誌アフタヌーンで隔月連載されていた、「蟲」と呼ばれる、虫や菌よりもさらに原初的な生命体と、その「蟲」と共生する(もしくはせざるを得ない)人々にまつわる物語集で、連載時には文化庁メディア芸術祭の漫画部門で優秀賞を、講談社漫画賞で一般部門での受賞を果たしている。
一話完結ではあるが、この物語はゴルゴ13やブラックジャックと違い、一話だけを読んでその世界感を理解するのは難しいだろう。設定の根幹である原初的な生命体という「蟲」の独特な概念もさることながら、時代設定や社会設定、絵の雰囲気に具体性が乏しく、イメージのフックとなるものがないので、一巻を読んだ後にどういう話が納められていたか思い出すという以上に、一話を読みながらも度々確認のために読み返してしまう。圧倒的に立ち読みには向いていない作品だ。雑誌が雑誌ならば打ち切りの憂き目にあっていたのではないだろうか。さらにこの作品で作者・漆原友紀が描く倫理や死生観は、我々がなれ親しんだだものとは大きく異なるので、読後感もまた言いようのないものになってしまう。作中、人は「蟲」を利用し、またある時には利用され(こっちの方が多いか)、そしてその結果大きな不幸、もしくは試練に見舞われる。「蟲」のあり方で象徴的なのは「綿胞子」(コミックス2巻収録)に登場する綿吐(わたはき)という蟲だろう。身ごもった女にとりつき、人間の子供の代わりに自分の幼生を産ませ繁殖するという彼らは、ちょっとしたホラー映画のモンスターである。しかし主人公ギンコ言うようにそれはただそうあるものであり、彼ら「蟲」はただ生きるために当然の行為をやっているのだ。そこに悪意などはなく、それならばそこには憎しみも存在せず、例えハッピーエンドのような装いの結末であったとしても、読者は素直に喜んでいいものかどうかわからない。この独特の、感情のやり場の無い読後巻はどうしても人を選んでしまう。少なくともどの話も、素直に喜怒哀楽を示す気持ちにはならないからだ。
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しかし、この物語が独特の世界感や倫理観を提示しながらも、物語を読み進めるうちに読者はあることに気づくのではないだろうか。それは、知識も技術も自然の掌の中にあり、強力な一神教もなかった時代と社会が、そしてその中で、得体の知れぬモノとどうしようもなく共存せざるを得なかった人々が、この物語の描くように、この国にかつては存在していたということだ。そんな受け入れるほか手段のなかった人々の暮らし、さらにそこから生まれる感情を、漆原友紀は呼吸が感じられるほどに親しみをこめて丹念に描いてみせているのである。果たして、そこに描かれているのはただ翻弄される人々だろうか?いや、そこにいるのは、こちらの生命を容易に脅かしうる何者かを隣人に持ちつつ、それでも生きつづけた私たちの先祖の姿ではないだろうか。全くのファンタジーであるこの物語にどこか郷愁を感じてしまうのは、そこにかつての私たちを見いだすからだろう。『蟲師』はそんなかつてあった私たちの姿を、既存の生命観を飛び越え、全くのファンタジーでもって、しかしどこまでも真実に描いた作品なのである。
この物語の根本にあるのは「相入れぬモノとの共生」ということになるだろう。そしてそれは上述したように、私たちのかつての「自然」な姿だったはずだ。だがしかし、主人公の蟲師ギンコが他の蟲師達とは違い、あえて殺さずに共生の道を探ろうとするその姿勢に、そして蟲師の記録を取る少女が蟲師達の仕事を「結局は殺生(そもそも仏教用語)の話か」と悲しむシーンに、「共生」というものに憧れを抱いてしまう、どうしようもなく「文明的な現代人」の目線を感じてしまうのである。なにより、他種族を殺したくないという気持ちこそが、もっとも「人間的」であり不自然なものではないだろうか?
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「殺したくないって思う心が……人間に残された最後の宝じゃないのか」寄生獣/第10巻
優れた物語である。しかしそうであるからこそ、一抹の不協和音が耳についてしまう。

蟲師 全10巻 完結セット (アフタヌーンKC)

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  • 作者: 漆原 友紀
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/02/28
  • メディア: コミック



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