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『モンスターズ・ユニバーシティ』/夢の残骸に埋もれないために

 ピクサー作品の魅力には端的に戯画化され、しかしなおも損なわれない物語の深さが挙げられる。『カールじいさんの空飛ぶ家』での序盤数分での人生の描写はその最たるものだ。今作でもその技は色あせず、OPの主人公マイク・ワゾースキーのボッチっぷり、「できない子」でありながらも健気で前向きな少年の描写は数分で観客を惹きつけ、マイクのことを我々に好きにさせずにはいられない卓越さだった。さらにマイクに突きつけられる絶望、不器用な夢追い人でありながらも計画性を持って努力をし、そして不正を好まない彼が、友の優しさゆえに最も傷つく形で現実に直面するというストーリーラインは、コミカルに描かれながらも『ベルセレク』における蝕並の悲壮感があり、サリーが人間界で行方不明になったマイクの肩を掴もうとするとき、もしマイクがベヘリットを持っていたならばゴッド・ハンドを呼び出していたのではないかと心配するほどの見事な作りである。

 そんな描写力と同様に感銘を受けざるを得ないのが、以前『トイ・ストーリー3』でも言及した声優起用の卓越さだろう。今回もこの声優起用の卓越さがこの作品を大人もひっそりと涙できる傑作にしてくれている。数年前、マイク役を務めた爆笑問題の田中裕二が、業界から干され仕事が激減した時期に、相方・太田光の才能に自信があったので芸人を続けてられたのだと雑誌インタビューで応えていたことがあった。子供の頃のプロ野球選手、6大学を卒業してアナウンサーと、自分を中心にした夢は潰えたが、相方と二人で歩み続け、そしてスポットライトを掴むことに成功した彼のそんな人生が、現実を突きつけられ、そこから再起するマイクというキャラクターシンクロし、この物語に深みを与えているのである。

 圧倒的な現実は人の夢を踏みにじる。そんな現実を突きつけられたとき、人はどう立ち上がり得るのか。子供は人生の深さ難しさを学び、そして大人はかつての、もしくは現在の自分を重ね合わせ共感することができるだろう。脚本、映像、演出、声優と、あらゆる方向からテコ入れし、優れた人生の縮図を作り上げたピクサーの技術には相変わらず唸らずにはいられない。

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『パシフィック・リム』/日本が観らずに何処が観る!

「そのタンカーをどうするんだ?そのタンカーをどうするんだ?そのタンカーで~~~~~ぶん殴ったああああああああ!!きょ~~れつ~~~~!!!!」
などと、プロレスはガチでヒールは本当に悪人だったのだと信じていた頃の心を取り戻し、思わず実況中継を入れたくなる程に大きいお友達のボルテージをMAXにしてくれるのがこの『パシフィック・リム』です。

 物語のあらましはというと、異次元から襲来してくる巨大モンスター:「KAIJU」を倒すため、なぜか人類は遠距離兵器ではなく直接ぶちかましてぶん殴る人型巨大決戦兵器イェーガーを造り出し(でもトドメはミサイルだったりする)、そのイェーガーに二人一組みのパイロットが互いの心をシンクロさせ、これまたなぜか遠隔操作ではなく直接乗り込んで操縦し戦いに挑む、というもの。
 こうくるとまるで例のごとくの昭和アニメの実写化のようですが、この作品はれっきとしたハリウッド映画、しかもスベリ無しの安牌娯楽作品なんです。そんな巨大怪獣と巨大ロボット(メインウェポンはチェーンブレイドとロケットパンチ!)という日本のオタク文化と、どんな作品でもある程度見れるものに仕上げる優れた技術と演出を誇るハリウッドの商業文化、この二つの奇跡の融合を成功させたのが、ハリウッドの映画監督でありながらお台場のガンダム像の前で目を輝かせ柏手を打って拝むほどの生粋のオタクであるギレルモ・デル・トロ監督と、そんな彼の下に集ったこれまたアニメオタクのクリエーター達なのですが、とにかくこの作品、大味で豪快なくせに一方でとても小奇麗にまとまっているんですよ。前席のジャポニカ・オタク達が鑑賞後に「三部作にすべきだったよね~」だとか宣っていましたが、いやいやこれを2時間に収めたのが凄いんでしょっ?て言いたいですね。世界設定や、戦いに臨む人物の背景や過去をしっかり描いて、さらにオタクならではのこだわり(施設の汚れや歴戦で付いたロボットの細やかな破損など)を盛り込んでんだから、これ以上望んだらバチが当たるってもんですぜ。ここまでオタクのフェティシズムを理解した上で秀逸な娯楽映画が作れるのであれば、何だかハリウッド版エヴァンゲリオンも成功しそうな予感さえしてしまいます※。

 今夏最高の娯楽大作、まさに太平洋を隔てた両文化の邂逅『パシフィック・リム』、KAIJUの破壊行為も圧巻なのでポップコーン代をケチってでも3Dで鑑賞すべきです。あとついでにパンフレットも買いましょう、劇中では語られなかった(というか語る必要のない)KAIJUの名前やロボットのスペックなんかも掲載されてて、これまたオタク心をくすぐります。メガネにパンフとちょっぴりコストが高くつくけれど、2時間で回れるテーマパークと思えば安いもんですって!

※リメンバー・ドラゴンボール
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『風立ちぬ』/やっぱりファンタジー

 前評価は色々あったが、やはりこの『風立ちぬ』も、従来の宮崎駿作品と同じくファンタジー映画だと言った方がいいだろう。ナウシカやラピュタ、ハウルを観て本気で戦争や文明社会のあり方を考察されることがないように、この作品も戦争や当時の日本の社会問題が本気で考察されるものではない。風立ちぬの詩にあるように、見えぬものを周辺の木々のざわめき感じ取るというコンセプトがあるようだが、当時吹き荒れていたのは暴風雨だったはずなのに、それを描くにしては今作はあまりにもそよ風ぎた。過去の作品としては、現実の大和朝廷のある日本を舞台にし、マイノリティへの差別や自然と人との相容れなさといった多くのテーマを詰め込んで、そして一言「生きろ」ととてつもなく真っ直ぐなテーマを投げかける『もののけ姫』がこれに近い。

 しかし一方で、この作品にはこれまでの宮崎駿の作品と大きく異なるところがある。それは彼がインタビューで度々言及していた「失われた可能性」が存在していない点だ。これまでジブリの主人公たち、特にヒロインは圧倒的なシステム、権力の前に立ち向かう勇敢な女性ばかりだった。立ち向かい、乗り越え、そして些細であっても世界に変化をもたらし「失われた可能性」を取り戻すような、そんな健気で強い女性たちだったが、今作のヒロインの菜穂子は彼女たちとはまるで違っていた。彼女が選択したのはいかに立ち向うかではなく、いかに受け入れるかだった。彼女にとってすでに死が避けられぬなら、あとは死に方の問題だったのだ。死からの抵抗から死の受け入れ、いきなりこんな趣旨替えをされては、宮崎駿に長年連れ添った鈴木プロデューサーがプロモートとはいえ「宮さんの遺言だ」と発言してしまったのも仕方がないと言える。そしてこの「抵抗」するのではなく「受容」するという物語のあり方が、この作品の評価を大きく二分してしまっている大きな点ではないだろうか(庵野の声に関しては言われすぎているので自分はスルーするとして)。

 なぜなら生き物にとって「抵抗」することは自然なことで、生命が脅かされたならどんな虫けらであってももがき「抵抗」するという、そこには無条件の必然性、リアリティが存在する。しかし一方で「受容」するということには無条件の必然性は存在しない。ゆえに観客がそこにリアリティを感じるためには、なぜ彼らがその選択をしなければならなかったのかという文脈が必要となってくるのだが、この物語にはその主人公たちが選択した「受容」にリアリティを持たせる文脈が不足していたのではないか。彼らが最後まで病気と戦う選択をしなかったのはなぜだろうか?結核は当時致死率の高い病気だったが、この病気から生還した人間もまた存在した。しかし彼ら、いや宮崎駿はそうしなかった。抵抗し続ける選択であっても、美しい人間の生き方を描けるにもかかわらずだ。確かに愛しい人と最も濃密な時間を過ごしたいという欲求は文脈の一つになりうるが、それが全てではあまりにも感傷的すぎるのではないか。結果として、宮崎駿の用意した文脈の一本に上手く乗ることができたならば、その人はこの物語にとことんハマることができるが、その網目からひとたびこぼれ落ちた人にとってこの作品はとんでもない駄作となってしまっているのだ。都合よく男女が再会し結婚し結核で死にかけで美しいという使い古されたツールを前面に押し出した根拠ない健気さを持つ女の横で好き勝手やっているメカマニア、そんな構図に落ちかねないのである。

 それだけではない。果たして、この物語は堀越二郎と堀辰雄という二人の人間を組み合わせた形になっているが、その必要性はあったのかという疑問も残る。片方だけを重点的に描いたほうが、より説得力を持って描けなかっただろうか。飛行機製造のシーンは間違いなく美しかった。設計図から飛行の様子、事故へ至るビジョンを二郎がイメージする演出からは、きっと並外れた天才の風景はこんなふうに広がっているに違いないと思わせ、観客にその二郎と同じ天才の視点を共有させる演出のワクワク感は、決して飛行機マニアだけでなく楽しめたに違いないし、宮崎駿の独りよがりなどでは決してないエンターテインメント性があった。だが、その天才が作り出した美しい零戦が人を殺すという苦悩もより深く描けたはずなのに、それを最後に「一機も戻ってきませんでしたが……」と片付けさせているのが、この作品が他でもない「そよ風」に落ち込んでしまっているところだ。この作品のことをファンタジーだと前述したのは、ファンタジーならば許される文脈の不足と、戦争を「そよ風」で描いた現実感の無さがあったからだ。それが結果として、間違いなく美しく崇高なものと隣り合わせになりながらも、そんな文脈の不足から物語に乗れない、遠くで風でざわめく木々を眺めながらも、自分の体には風が一向に吹いてこない人たちに対し、ひたすらな後味の苦さを残す作りになってしまっているのである。

 この『風立ちぬ』は時代と人の成長によってこれからも評価が変わり続けるだろう。受け手にも文脈があり、そしてそれは常に変化していくからだ。ある人は後々に素晴らしい作品だと言い、ある人は一時の自身の熱狂に首をひねるかもしれない。評価が良い意味で変動しないナウシカやラピュタと違い、そいういう点ではやはり宮崎駿の最高傑作だとして記憶されそうな作品ではある。

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