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誰がためにゴジラは鳴く/『GODZILLA』(2014)

エメリッヒ版ゴジラの悪夢から早16年、エドワーズ版を鑑賞した後ちょいヲタの上司に感想をご報告。

俺「ゴジラ観に行きましたよ。良かったです。人類の持ちうる技術力と脚本力と資本力を駆使して作った、現時点で作れる最高のゴジラ映画だと思います。」

上司「前回のが酷かったけど今回は大丈夫なんだ?ゴジラはやっぱり外人には理解できないって話があったけどさ」

俺「確かに前回の件があるから結構な不安があったんですけれど。でも酷い酷いと言われてるエメリッヒ版のゴジラですが、日本版のゴジラよりも興行収入は上なんですけどね。エメリッヒの一部のマニア受けでしかないゴジラを一般向けにしたかったという意図は成功してるんですよね」

上司「ああ、そうなんだ?」

俺「それに外国人にはゴジラは理解できないという評価もやや乱暴なテンプレかと思いますね。総合格闘家ドン・フライはファイナルウォーズに出演した際、インタビューでゴジラとは人間への自然からの戒めであると語っています。日本人しかゴジラを理解できないというのはちょっとした傲りではないかと」

上司「まぁ前のゴジラ観て海外のゴジラファンも怒ってたって話だからな」

俺「そうです。それに日本人が正確にゴジラを理解しているかというとそれも疑問です。ゴジラのプロデューサーだって核の悲劇を訴えていたのは一作目だけだと言ってますし、なにより昭和ゴジラなんてもう子供向けのヒーローものですからね」

上司「シェーしたり空飛んだりな(笑)」

俺「なにより、ゴジラというコンテンツからそっぽを向いたのは他でもない僕ら日本人です。ミレニアムシリーズは観客動員数がみるみる落ちて、最後の方なんてとっとこハム太郎と同時上映の抱き合わせだったわけですから。ファイナルウォーズなんて身内の日本人が作ったから許してもらえてるレベルですよ。あんなの海外が作ってたら"ゴクウとゴジラの区別が付かないのかガイジンは”とか突っ込まれてます」

上司「そりゃひどいな(苦笑)。ところで気になってたんだけどさ、予告ではビキニ環礁での核実験はゴジラを殺すためだった、要するにアメリカの核実験は悪くないって話になってるように見えるんだけど?そこは大丈夫なの?」

俺「そういう見方もありますが、僕はそこから見えてくるのはアメリカなりの畏敬すべきゴジラの存在だと思います。核を使っても倒せないというのはゴジラには人間のコントロールなど及ばないのだということの象徴かなと。核攻撃されたところで大して気にもしないし移動時に建物を破壊し津波を起こしおそらく多くの犠牲者を出しているけれど意に介さない、それは自然災害そのものとしての描写じゃないでしょうか。日本版は自然に神格を与えたような感性のゴジラですが、エドワーズ版では神格のない自然といったところですね」

上司「そっかぁ、でもネットだとゴジラの出番が少なすぎって話じゃん?おすぎかピーコもそこ突っ込んでたし」

俺「そこは確かに短いです。ライバル怪獣の方が遙かに登場時間は長いくらいです。ただこれは……推測なんですが54年版の一作目を意識したんじゃないかなとも思うんですよね。一作目も人間ドラマがかなり長いですし多分ゴジラの登場シーンも今回以上に短かったんですよ。でもその分だけ得体の知れない「何か」を演出するには効果的だったわけです。今回は人間ドラマでタメを作って得体の知れない新怪獣ムートーの存在を煽り、そのムートーの存在でタメを作ってさらに得体の知れないゴジラの存在を煽るという二段法で演出を効果的に作っていると思います。バランスが難しいんですよそこは。同じ怪獣映画のパシフィック・リムは終盤なんて食傷気味になりませんでした?海底でのバトルの時なんてもうええわって思いましたよ。多分今回も出しすぎたら出しすぎたらで「ゴジラのことが分かってない」という批判が出てたんじゃないでしょうか」

上司「じゃあ結論としては高評価なわけだ?」

俺「ええゴジラ映画としては星5つです。けれど……映画としては星3,5ですかね」

上司「ひっかかる言い方だな」

俺「なんというか肝心のタメを作る人間ドラマがしょぼいというか……主人公の父親のブライアン・クランストンはいい演技してるんですが当の主人公の軍人、彼キック・アスの俳優なんですが、それに気づかないんですよ悪い意味で。誰でもいいような演技してるから。渡辺謙とかもせっかくいい味だしてるんだから、もっとゴジラとの深い因縁がほしかったところです。でもまぁぶっちゃけ日本版のゴジラのドラマ部分に至っては、メインの特撮終わった後スタッフが疲れた上で撮ってたっていうから、映画的には星3つもないんですけどね(苦笑)。あとゴジラの登場時間はいいとしても、バトルがせっかくハリウッドなんですからもっと魅せてほしいかなって。ゴジラである以上、技に噛みつき、尻尾、体当たりに放射熱線しかないのは仕方ないかもしれないんですけど、パシフィック・リムがDDTの飯伏とケニー・オメガだとすると、こっちはWJの長州と天龍みたいに退屈なんですよ」

上司「その例えは分からんな(苦笑)」

俺「すんません(苦笑)。でも今回のゴジラのムートーを仕止めるフィニッシュ技は凄いとうか、やばかったです(笑)。多分ゴジラ史上屈指の名シーンではないでしょうか。日本人の発想だとかめはめ波を越えるのが超かめはめ波で、さらに強いのが元気玉でそれを越えるのがもっと気を集めた元気玉みたいになってくるんですけど、今回のフィニッシュ技はハリウッドのアクションならではだと思いました」

上司「それは期待させるなぁ」

俺「繰り返しになりますが、集大成なのに滑ったファイナルウォーズから10年、この映画は人類の持ちうる技術力と脚本力と資本力を駆使して作った現時点での最高のゴジラ映画です。過去はもちろん大切ですが、ありがたがるものでもありません。公開されているその時代のお客さんが面白くなければいけないんです。本家がオワコン化させ終了させてしまったゴジラを、今この時代に蘇らせ世界中の人がゴジラの咆哮を聞けるようにしてくれたことにまず感謝したいですね」



『ヴィオレッタ』凡庸に非凡を描くこと

1977年にモデルとなった写真集『鏡の神殿』で一躍世界的に知られることとなり、史上最年少でプレイボーイの表紙を飾った少女エヴァ・イオネスコ、しかし彼女は過激な写真集によって少女時代を失ったとして30年後、自身を被写体にして写真集を出した写真家の母親を訴えることとなる。この映画はそんな芸術とポルノ、母親と娘との関係の中で苦しんだ彼女の自伝的作品となっている。

 母と娘の確執、芸術とポルノの境界、「カンヌで議論を呼んだ」というふれこみでいかにも過激な内容を想像しそうだが、全体的にはとても平凡な作りだったように思う。序盤にエヴァ(映画での役名はヴィオレッタ)が母親に命じられて服を脱ぎ始めるときは内心「おいおい自分が母親訴えてんのに人様の娘は脱がせるんかい」と思ったのだが、その後は肩すかしのように抑えた描写にとどまり、また母親にポルノスターに仕立て上げられたという苦悩も、まぁ苦しいだろうことは描いていたが、いまいちパンチが足りない気がしてならなかった。なんとも踏み切れないアクセルの数々で釈然としなかったものの、しかしそこは本作のパンフレットを読むと合点がいく。

「やっと歩き始めたばかりの子供にヌードでポーズをとらせるなんてとてもできなかった。(中略)暴力だってもっと酷くできたかもしれない。映画のこういった側面を頭では理解できるけれど、実際に画面には映ってはいないの。私の限界はそこだった。自分の傷とは距離を置いているのよ。」

 彼女はここで傷と表現しているが、私見としてはその傷の正体は芸術的であるということ、非凡を渇望するということとも置き換えられるように感じた。芸術家でありながらあくまで常識的な視点で芸術と距離を保ち撮り続けるエヴァ、振り返るにこの作品全体に漂う平凡な視点こそが彼女の葛藤のあらわれだったのではないだろうか。

 30年経っても未だ乾ききっていない生傷に触れぬように映画を撮り続けたエヴァだが、それでも一つだけしっかりと掴み取り撫でさするような視点があった。それは母を見つめる娘の冷徹なまなざしである。その当時、ヨーロッパのみならず世界中に衝撃を与えた母イリナ・イオネスコへの賞賛は、現代の我々の想像をはるかに越えたものがあっただろうし、芸術家に対するリスペクトが日本よりもはるかに強いフランスでは彼女のを毒親と切って捨てることなど到底出来はしない。しかし、娘エヴァが劇中でアンナとして描く母はそういった偉大なるアーティストとしてではなかった。そこに描かれていたのは、親からの愛情の欠落で承認欲求をむき出しにし、自分たちを理解しない人間を凡人と罵るものの、その実男に振られたならばどうしようもなく凡庸な女としての一面をさらけ出す痛々しい女性であった。反発するヴィオレッタに対して「バタイユを読みなさい!」と言い聞かせる芸術家( )の母の姿は実に滑稽の極みである(バタイユに何期待してンだよ)。そしてこの母というフィルターを通して、我々はエヴァがこの傷の痛みとどう向き合っているかを伺いすることができるのだ。

 陳腐さと凡庸さと低俗さ、芸術というのはただ崇高に輝かしいだけのものではない、それらの裏返しによって成立するものでもあるのではないか。母を厳しく描き、そしてエンドロールの寸前までその母から逃げ続け和解を拒否する少女の背中が、それを物語っているように思えた。

思い出し日記②夢つき

 一人の男がいた。そいつはパーラメントの香りを身にまとい、ドングリのように丸々とした太い眼光でこちらをじっと見据え、時代と場所を超えた壮大な物語を、その口から流れるように話し続けた。
 僕の職場の先輩Fさん、彼は湘南の生活に憧れたという理由で生まれ故郷の沖縄を後にし、某有名私大に受かった後は学費と生活費を稼ぐため、バーで出会った女の相談を聞くフリをしながら風呂に沈むよう誘導しその上前をいただき、しかしその大学は中退してバッグパッカーで世界を旅行し、アメリカ滞在時にヤンキーに絡まれた際には仲間と空手の構えをとって「アチョー!」と叫んだだけでそのヤンキー共を屈服させ今ではそいつらと飲み仲間、ちなみにそのヤンキーの一人はジェロと親戚、日本に帰国した後は愛しさと切なさと心強さをいつも感じている女優と飲み仲間になり水曜の加減を伺ってる俳優とは気さくに話し合う仲、あとレミオロメンの「3月9日」は彼の従兄弟の結婚式のために作られたのだという。彼はまさに人生そのものがグレート・ジャーニーのような男だった。

 まぁ、全部嘘なのだけど。

 彼の言ったことの何から何までが嘘なのかは分からない。しかし学歴はおろか、家族構成、生まれ故郷をも偽っていた彼は、もしかしたら自分ですら何が嘘か分からなくなっていたのかもしれない。同僚は言う。
「あいつは病気だよ」
「虚言癖というやつだ」
 最初は興味深く彼の話を聞いていた職場の新人たちも、やがては彼の発言のつじつまの合わなさに気づき離れていく。彼は次第に孤立していった。
 しかしここで一つのことを問いたくもなる。嘘というのは、罪なのだろうか?もちろん、人を騙すのは不誠実ではあろう。しかし彼の嘘のように嘘と分かりきって聞く嘘、それはいわゆるフィクションと呼ぶべきものではないか。

 僕は思う、彼は嘘つきじゃなかった、夢つきだったのだと。職場で暇な時間、僕は彼と世界中を旅行した。チベットの鳥葬、聞いたことのない言語学の学説、彼の話術は堂に入っていて、その空間には凄まじいリアリティがあった。テレビ番組や映画の話しなどをする時には、例えこちらも同じものを見ていたとしても、彼から聞く脚色の入った話しの方がより魅力的で面白かった。

 嘘か本当か白か黒か1か0か、法律番組が流行り訴訟件数が増える中、時代が求めているのはそんな結論なのかもしれない。しかし、ほら吹き男爵ミュンヘハウゼン侯がいた時代のように、そいういった人々が憎まれず、むしろ愛されてしまうような、底抜けにおおらかな時代と場所が、かつてこの世界のどこかにはあったはずだ。そしてなにより、そんな境界線の狭間でこそ、文化というものは生まれ続けてきたのではないか。自分の生まれてもいない時代に思いを馳せても仕方がないが、何だか段々と、この国がフィクションを本気で楽しみながらも現実と区別する器用さを失いつつあり、結果冗談さえも分からなくなってくるのではないか。ノイジーマイノリティが力を持ち、表現規制が進む昨今、そんな一抹の不安を感じずにはいられないのだ。

 ほら吹き男爵を抹殺した世界、それは驚くほどの色彩のない退屈な世界だというのに。

『なんちゃって家族』/知性すら感じさせる下品さ

 ある雑誌で在邦ロシア人がこう語っていた。
「日本はスラングのバリエーションが少ないのが素晴らしいですよね。ロシアにはスラングの辞書さえあって、それはとても恥ずべき事だと思っています」

 確かにスラングが少ないというのは上品なことであり良いことなのかもしれない。日本人はそれを誇りに思ってもいいだろう。しかし、である。この映画『なんちゃって家族』を観てしまったならば、そんな美徳のために越える事のできないユーモアの壁が、我々(日本人)と彼ら(欧米人)の間に立ちはだかってしまっていることを痛感させられるはずだ。息をつかせぬスラングと皮肉の応酬、いったいこの民族は上手く人を罵れることにどれほどの情熱を費やしているのだろうかと呆れんばかりである。しかもそれが悔しいほどに面白いのだ。

 とにかくこの映画、下品が過ぎるものの台詞の一つ一つがウィットにとんでいて実に瑞々しい。例えば親から性的虐待を受けている家出少女に主人公が「俺は『プレシャス』のDVDなんて観たことない!」と言い放つのだが、その文脈の凄まじさに至っては語るも野暮だろう。ゲスとゲスの泥濘に咲き誇るそユーモアの花々は、我々日本人には永遠に手に入らないのではないかという程に遠く美しくもある。メキシコからヤクを運ぶために作り上げられた偽装家族の珍道中のはずが、それを観る私の目は70年代の理想的な白人の中流家庭を描いたドラマ観る田舎っぺのそれだったに違いない。

 映画サイトのレビューを観ると「下品」のキーワードがやたら目に付くので、単館系のキワモノ映画のような印象が拭えないかもしれない。しかし偽装家族の長女を演じるエマ・ロバーツ(ジュリア・ロバーツの姪っ子)や、その弟役のウィル・ポールター(リトル・ランボーズ、ナルニアで絶賛された子役)と、何気にこれから注目されるだろう若手も出演したりしているので、映画ファンは是非ともチェックしておいた方が良い作品だと言えるだろう。

「旬の素材を贅沢に使ってます」/アメリカン・ハッスル

 FBIが天才詐欺師とコンビを組んで大物政治家を逮捕した「アブスキャム作戦」、この全米を震撼させた衝撃の実話を遂に映画化!……こんな文句煽りだけでも下地は十分なのだが、そんなストーリーを補強する俳優人がまた凄まじい。今や名優と名指ししても誰も異論を唱えないだろうクリスチャン・ベイル(今回のために20キロの増量!)、化粧とライトの当て方次第で美女にも醜女にも変身するエイミー・アダムス(今回もビッチ!)、数々の賞にノミネートされるなど着実にキャリアを積み重ねつつあるブラッドリー・クーパー(残念なイケメン全米代表!)、『ハンガーゲーム』のヒロインの面影など皆無なメンヘラを演じたジェニファー・ローレンス(殴りたくなるほどのクソビッチ!)、説明不要のロバート・デ・ニーロ(いるだけで怖ぇよ!)、クレジットを見るだけでもその豪華さに期待膨らんでしまうのだが、そんな彼らが織りなすこの騙し合いの交響曲は、詐欺に加えて恋愛の駆け引きも絡んできてしまい、うっかり気を抜いてしまうと自分が何を観ているのか良い意味で分からなくなってしまうのである。まさにヘルタースケルター、お祭り騒ぎのエンターテーメントといった感じの作品だ。

 しかしこの監督、『ザ・ファイター』でもそうだったのだが、相変わらずビッチを撮るのが上手いこと上手いこと。我の強い相棒エイミー・アダムスと詐欺師さえもお手上げのメンヘラ女房・ジェニファー・ローレンスに挟まれて、クズ野郎の主人公アーヴィン(ベイル)や功名に先走るリッチー(クーパー)が何だか可哀想になってきてしまうのだ。自分がゲイである可能性は全力で否定するが、セクシーな男達が精神的に追いつめられていく様は母性本能をくすぐられずにはいられない。引用の曲がマニアック過ぎてネイティブにしか面白みがわからないという声もあるようだが、まあ何となくの雰囲気はつかめるはずだ。

 極上のストーリーに極上のキャスティング、ちょいとこじつけのハッピーエンド感があるものの、きらびやかな銀幕の世界を純粋に楽しませてくれる逸品だ、一つ景気づけに劇場へと足を運んでみてはいかがだろうか。

思い出し日記①安酒でも酔いは本物だから

「善人であるほど酒が旨い」、そういったのはドフトエスキーだっただろうか。そして私の人生で唯一の親友といえる彼は、激しくそんな言葉の似合う男だった。
 私と彼は仕事明けによく飲みに行った。お互いに地方出身者であるためか、飲みが進んでいくとお互いに今後の身の振り方を話すのだが、お互いに夢を持ち上京し、しかしそれの実現が難しいと分かった今、肉体労働に勤しみながら日銭を稼ぎ、楽しい話題など何もないが、それを笑ってやり過ごすため、私たちはただひたすらに日々の飲み込めぬモノを酒と一緒に飲み込むのだった。
 ふと以前に彼の家が代々続く建設会社だということを知っていたので何気なく「何だったら実家で働けばいいじゃないか」と提案してみたところ彼の表情はあまり浮かない様子でこう語った。
「民主党に政権が移ってからきついんだよね、ウチ。小沢のおかげでギリギリもってるらしいけど……政権変わっただけでここまで変わるとはねぇ……。」
 当時は「政権交代」というにマスメディアの煽りによって民主党が政権を獲得したばかりだったが、建設業を営んでいた東北の彼の実家はそのせいでかなりの打撃を受けていたのだという。
「なんか、希望のある話しが聞きてぇよな……」
「うん、民主党の手腕もかなり叩かれてるから、多分次の選挙とかは少数政党とかが躍進するって言われてるよ。そうすれば、もっと地方にあった政党とかが勝つんじゃない?」
 彼は顔を赤らめたまま、よくワカンねぇなとジョッキを飲み干した。そしてそれから暫くして、彼の実家が倒産してしまった旨を聞いたのである。
「だって政権交代って見てみたいじゃないですか~」
 民主党に投票したという女性がテレビインタビューにこう答えていた。この光景は彼にはどう見えただろうか。飲めないモノを飲み込もうとするために酒をあおるというのならば、私より酒の量が多かった彼は、きっと私より飲み込めないモノが多かったのだろう。

最古にして最新の/『かぐや姫の物語』

 この二人は、血流の方向すらも相反しているのではないだろか。この作品を見てまず感じたのが強烈なまでの「宮崎駿ではない」高畑勲の存在だった。
 
『ホーホケキョとなりの山田くん』の公開時、高畑勲は「はっきり言って間違いだと思ってる」と、『もののけ姫』に対してこう言い放ち、そんな彼の作品のテーマは『もののけ姫』の「生きろ」に対して「慰め」というものであった(その当時の「癒し」ブームへの反発もあったのだろう)。そしてそれから14年、『かぐや姫の物語』は我々の眼前に現れた。夏に公開された『風立ちぬ』のテーマが「生きねば」であったのに対して、この物語にはテーマがなかった。ただ地にあるものを体全体で受け止めれば、自ずと生きる理由になるということを伝えるため、高畑はただひたすらに美しい地上と、それを真正面から享受するかぐや姫と子供たちを描いたのである。作品の根底に流れる思想の違い、宮崎が自分の内面へ意識を集中させ(恐らく)最後の作品を手がけた一方で、高畑は外部に意識を開放し(多分)最後の作品を作り上げたのだ。なんというか、いい加減還暦などとうに過ぎているというのに、心枯れずにここまで激しいライバル関係を続けていること自体に恐れ入る。しかしライバル同士の作品とはいえ、この二つの作品に優劣を付けることは簡単にできることではないだろう。両作品には「生きる」美意識における方向性の違いがあるのであって、これはあくまで観客の好みの問題にもなってくるからだ(興行収入に関してはゴニョゴニョ)。だが、ただ一点、声優起用に関しては断然にこちらに軍配があったのではと思う。この作品で用いられたのは、あらかじめ俳優に演技をしてもらいその後に絵をつける「プレスコ」という、海外では割と多用されているものらしいのだが、この手法で作られた本作はとにかく絵に生命力が溢れていた。聞き覚えのある声のはずの地井武男の声はちい散歩してるそれではなく、間違いなくスクリーンの翁の五臓六腑から発せられた声であり、そして気持ちの悪かったアゴ(帝)はパンフレットの中村七之助の写真を見るなり二重に説得力を帯びた。もし『風立ちぬ』がこの手法で製作されたならば声優に対する批判の一切はなかったのではないだろうか(あの声の堀越二郎なら、容姿は猫背で動きももっさりしてて若干目が鯖みたくなってるはず)。

 また高畑の本作へのこだわりとして、声優と同時に音楽の存在も見逃してはならない。本作の音楽は挿入歌や主題歌というくくりには収まりきれない、まさに作品の必須要素として歌が存在し、高畑が作詞作曲した劇中歌の「わらべ唄」はこの歌なくしては作品が成立しない、というよりも、見ようによっては映画自体が歌の壮大なPVですらあるのではないかという趣すらあるのである。かぐや姫は歌によって四季を愛で歌によって成長していくのだが、その時々の風景によってそれが懐かしい童心をくすぐるものであったり、過去の悲しい思い出を喚起するものであったりと、同じものでありながらその歌は常に表情を変え続けるのだ。その歌の存在価値が最高潮に達するのが物語の最後、月の民がかぐや姫を連れ去ろうとするシーン、月の民が奏でる機械の打ち込みのような胡散臭い音楽を、女童(めのわらわ)が声だけで奏でるわらべ唄で迎え撃たんとする時だ。女童が歌うのはわずかたった数秒の唄だが、地上の美しさと穢に苦しむかぐや姫をそばで見続けた彼女がその唄を歌うその瞬間に、二時間の物語が圧縮されて観る者にフラッシュバックされるのである。具体的な風景は何も出てこない、ただかぐや姫が地上の世界で何を感じ続けていたかが荒波として押し寄せる地上の生命の賛歌は、誰もが知る悲劇の結末をより一層重いものとして演出する。

 日本最古の物語をもののあわれの美徳を失わず現代の鑑賞に耐えうる作品として完成させた高畑勲、宮崎駿とは違う形で(きっと)最後の花道を飾るに相応しい作品を残したのではないだろうか。

http://kaguyahime-monogatari.jp/

思考する煙/『ハンナ・アーレント』

 アイヒマン裁判を大胆に解釈した知の巨人ではなく、身近な問題における政治の、そして思想的な立場を明確に示すとき、避け難く生じる周囲との軋轢に葛藤する一人の女性、この作品に登場するハンナ・アーレントはそういう人間として描かれていた。作中でユダヤ人迫害に関しては述懐のみにとどめられ(もしかしたら予算の関係かもしれませんが)、哲学界のトラウマともいえるハイデガーのナチス礼賛が前知識のある文系へのサービス程度での比重でしか登場しなかったのは、物語の焦点がまさにそこだったからであろう。そしてこの映画はそうであるからこそ、まさしく今、この国で見られるべき作品なのである。

 物語の冒頭では、ハンナの周りにいたのは議論と人間関係は別問題だと割り切れる程に教養の高い人々だった。彼らの関係はハンナの友人の一人である米国人メアリ・マッカーシーが、彼らの白熱した独語での議論に戸惑いを覚えながらも、議論の終わりにはまた談笑できるようなものだったのだが、ハンナがアイヒマン裁判を傍聴し雑誌“ニューヨーカー”に論文を掲載した後からそれは崩れてしまう。あまりにも彼らにとってセンシティブだったアイヒマン裁判を、感情抜きに分析したハンナに対しユダヤ人の友人達は「冷酷で傲慢な女」「君の友人アイヒマン」と言い放ち攻撃し始めるのである。政治的な発言をする時、友は離れ場合によっては家庭すらも壊れてしまうことさえある、たとえそれが崇高であり意義のあるものであってもだ。自らが所属していたユダヤ人コミュニティを敵に回してまで発言し続けたハンナには、3・11以前は「飲みの席で政治と宗教(あと野球)の話題は出してはならない」と言われてきたものの、ツイッターなどのSNSを中心としてその禁忌されていたものが積極的に話されるようになってきたこの国の現在を生きる人々にとって強く共感するものがあり、この映画が東京ではただ一館、岩波ホールでの上映であるにも関わらず連日の満席を記録しているのはそういう経緯があるのではないだろうか。

 また、その苦悩し葛藤し続けるハンナ・アーレントの描き方も、決して単調ではなく実に躍動的だった。「思考する」という、どうにも映画的には退屈になりがちな行動を、煙草を持ち出すことによってハンナの「思考の運動」を白煙で卓越に表現している監督・マルガレーテ・フォン・トロッタの演出手腕は見事なものである。ラストの8分間の講義はハンナの煙草のスタートダッシュから始まり(普段の講義では、ハンナは時間を決めて途中で吸うようにしていた)、一気にアイヒマン裁判の、アウシュビッツの、そしてホロコーストにおける悪の陳腐さを看破せしめるのである。論敵達が睨みつける中、まるで対向車線で繰り広げられるカーチェイスのように固唾を飲み込ませる程の躍動感に溢れた講義は、観客に思考へと促す熱い爪痕を残さずにはいられない。※

 振り返るにハンナに降りかかったのはひたすらな不幸だったのだろうか。いや、まだ彼女には米国人作家メアリ・マッカーシーとの友情が残されていたはずだ。議論嫌いであるにも関わらず、毅然とハンナの非難者に立ち向かうメアリの存在は、もしその立場故に自分の前から去る人間がいたとしても、真に良き友人は残り得るのだという、この物語の一つにして最大の救いだといえるだろう。

※岩波ホールのパンフを買えばシナリオがついてくるので講義の内容をいつでも再読できます。

https://www.youtube.com/watch?v=WOZ1JglJL78

『市場クロガネは稼ぎたい』梧桐柾木

 マルクスに読んでもらいたい!思わずそう唸らずにはいられなかった。

 本作をざっくり説明してしまうと、小中高一貫校「学円園学園」での学生たちの部活動での活躍を描く、というものなのだが、この『市場クロガネは稼ぎたい』が異彩を放つのはその部活動が企業(新聞部・服飾部等)という形態をとっており、そして部活動が活躍し評価されると株価も上昇するというところにある。最終的に学生が卒業までに幾ら稼いだかによって評価されるのだが、例えて言うなら子供に疑似的に働かせてお金(もちろんおもちゃの)を稼がせるテーマパーク、キッザニアをより本格的にしたものだと言えば分かりやすいだろうか。
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 主人公・市場クロガネは大企業の御曹司という生粋のボンボンで一人では何も出来ない青年なのだが、幼少の頃より社交界でその道の一流の人間と接し続けたことによって、人間の隠された才能を見抜く「神の左目」という特殊能力を開花させており、その能力を活かしながら、例えば料理を作る才能があってもマネジメントが下手な学生にその逆の才能を持った学生を紹介したりと、埋もれていた才能と才能を引き合わせ、傾いていた企業を立て直し、働くことに苦痛を感じていた人間の負担を軽減させ仕事にやりがいを取り戻させるという、いわゆる人材コンサルタント会社をその「学円園学園」で設立し、入学時に不可抗力で背負ってしまった1億の借金を返済していくのである。部活が株式会社というユニークな発想も去ることながら、市場クロガネが傾いていた店や企業を独自の視点で立て直していく様は、少年漫画であるがゆえのダイナミズムに溢れており、青年誌に掲載されている経済漫画を読むように眉間にしわを寄せる必要などは全くない。
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しかし、それ以上にこの作品の白眉は株の妖精イアラ・タミルの存在にあるといえるだろう。一昔前、この国では「芸人と物書きと株屋は家の敷居を跨ぐな」と言われるほどに、株で稼ぐ人間は何も生み出さない、虚実を操る人間として忌み嫌われていた。流石に現在ではそこまでの悪いイメージは無いとはいえ、それでも投資はあくまで個人的な金稼ぎやマネーゲームであるという受け止められ方が強く、あまり社会の役に立っていると見なされてはいないだろう。だが、このイアラ・タミルの登場回では株がなぜ賭事とは違うのか、それが何故社会的に価値のあることになるのか、それを企業と働く現場、そして投資家の目線を通して簡潔に描くのである。
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 少年漫画において「努力」という言葉は常に尊ばれてきた一方で、私達が人生で最も努力しなければならない一つの筈の「仕事」に関しては、少年漫画は着手はおろか着目すらしてはいなかった。しかしその禁足地に踏み込み少年少女たちの活躍を通して「働く」こと、それ以上に「稼ぐ」ことの価値や意義を見直していく本作は、「労働が人を疎外する」という言葉をぶっちぎりで過去の遺物にせんばかりの勢いである。物語の形式のみならず少年漫画としての価値観そのものも新しい『市場クロガネは稼ぎたい』、果たしてこれからこの作品がどう成長していくのか、最新刊では「金儲けは悪」だと主張するクーロン・リューも登場し物語はより一層深みを増していきそうな予感さえある。作品そのものも勿論、その周囲への影響が楽しみな漫画だ。
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『モンスターズ・ユニバーシティ』/夢の残骸に埋もれないために

 ピクサー作品の魅力には端的に戯画化され、しかしなおも損なわれない物語の深さが挙げられる。『カールじいさんの空飛ぶ家』での序盤数分での人生の描写はその最たるものだ。今作でもその技は色あせず、OPの主人公マイク・ワゾースキーのボッチっぷり、「できない子」でありながらも健気で前向きな少年の描写は数分で観客を惹きつけ、マイクのことを我々に好きにさせずにはいられない卓越さだった。さらにマイクに突きつけられる絶望、不器用な夢追い人でありながらも計画性を持って努力をし、そして不正を好まない彼が、友の優しさゆえに最も傷つく形で現実に直面するというストーリーラインは、コミカルに描かれながらも『ベルセレク』における蝕並の悲壮感があり、サリーが人間界で行方不明になったマイクの肩を掴もうとするとき、もしマイクがベヘリットを持っていたならばゴッド・ハンドを呼び出していたのではないかと心配するほどの見事な作りである。

 そんな描写力と同様に感銘を受けざるを得ないのが、以前『トイ・ストーリー3』でも言及した声優起用の卓越さだろう。今回もこの声優起用の卓越さがこの作品を大人もひっそりと涙できる傑作にしてくれている。数年前、マイク役を務めた爆笑問題の田中裕二が、業界から干され仕事が激減した時期に、相方・太田光の才能に自信があったので芸人を続けてられたのだと雑誌インタビューで応えていたことがあった。子供の頃のプロ野球選手、6大学を卒業してアナウンサーと、自分を中心にした夢は潰えたが、相方と二人で歩み続け、そしてスポットライトを掴むことに成功した彼のそんな人生が、現実を突きつけられ、そこから再起するマイクというキャラクターシンクロし、この物語に深みを与えているのである。

 圧倒的な現実は人の夢を踏みにじる。そんな現実を突きつけられたとき、人はどう立ち上がり得るのか。子供は人生の深さ難しさを学び、そして大人はかつての、もしくは現在の自分を重ね合わせ共感することができるだろう。脚本、映像、演出、声優と、あらゆる方向からテコ入れし、優れた人生の縮図を作り上げたピクサーの技術には相変わらず唸らずにはいられない。

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