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『パシフィック・リム』/日本が観らずに何処が観る!

「そのタンカーをどうするんだ?そのタンカーをどうするんだ?そのタンカーで~~~~~ぶん殴ったああああああああ!!きょ~~れつ~~~~!!!!」
などと、プロレスはガチでヒールは本当に悪人だったのだと信じていた頃の心を取り戻し、思わず実況中継を入れたくなる程に大きいお友達のボルテージをMAXにしてくれるのがこの『パシフィック・リム』です。

 物語のあらましはというと、異次元から襲来してくる巨大モンスター:「KAIJU」を倒すため、なぜか人類は遠距離兵器ではなく直接ぶちかましてぶん殴る人型巨大決戦兵器イェーガーを造り出し(でもトドメはミサイルだったりする)、そのイェーガーに二人一組みのパイロットが互いの心をシンクロさせ、これまたなぜか遠隔操作ではなく直接乗り込んで操縦し戦いに挑む、というもの。
 こうくるとまるで例のごとくの昭和アニメの実写化のようですが、この作品はれっきとしたハリウッド映画、しかもスベリ無しの安牌娯楽作品なんです。そんな巨大怪獣と巨大ロボット(メインウェポンはチェーンブレイドとロケットパンチ!)という日本のオタク文化と、どんな作品でもある程度見れるものに仕上げる優れた技術と演出を誇るハリウッドの商業文化、この二つの奇跡の融合を成功させたのが、ハリウッドの映画監督でありながらお台場のガンダム像の前で目を輝かせ柏手を打って拝むほどの生粋のオタクであるギレルモ・デル・トロ監督と、そんな彼の下に集ったこれまたアニメオタクのクリエーター達なのですが、とにかくこの作品、大味で豪快なくせに一方でとても小奇麗にまとまっているんですよ。前席のジャポニカ・オタク達が鑑賞後に「三部作にすべきだったよね~」だとか宣っていましたが、いやいやこれを2時間に収めたのが凄いんでしょっ?て言いたいですね。世界設定や、戦いに臨む人物の背景や過去をしっかり描いて、さらにオタクならではのこだわり(施設の汚れや歴戦で付いたロボットの細やかな破損など)を盛り込んでんだから、これ以上望んだらバチが当たるってもんですぜ。ここまでオタクのフェティシズムを理解した上で秀逸な娯楽映画が作れるのであれば、何だかハリウッド版エヴァンゲリオンも成功しそうな予感さえしてしまいます※。

 今夏最高の娯楽大作、まさに太平洋を隔てた両文化の邂逅『パシフィック・リム』、KAIJUの破壊行為も圧巻なのでポップコーン代をケチってでも3Dで鑑賞すべきです。あとついでにパンフレットも買いましょう、劇中では語られなかった(というか語る必要のない)KAIJUの名前やロボットのスペックなんかも掲載されてて、これまたオタク心をくすぐります。メガネにパンフとちょっぴりコストが高くつくけれど、2時間で回れるテーマパークと思えば安いもんですって!

※リメンバー・ドラゴンボール
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『風立ちぬ』/やっぱりファンタジー

 前評価は色々あったが、やはりこの『風立ちぬ』も、従来の宮崎駿作品と同じくファンタジー映画だと言った方がいいだろう。ナウシカやラピュタ、ハウルを観て本気で戦争や文明社会のあり方を考察されることがないように、この作品も戦争や当時の日本の社会問題が本気で考察されるものではない。風立ちぬの詩にあるように、見えぬものを周辺の木々のざわめき感じ取るというコンセプトがあるようだが、当時吹き荒れていたのは暴風雨だったはずなのに、それを描くにしては今作はあまりにもそよ風ぎた。過去の作品としては、現実の大和朝廷のある日本を舞台にし、マイノリティへの差別や自然と人との相容れなさといった多くのテーマを詰め込んで、そして一言「生きろ」ととてつもなく真っ直ぐなテーマを投げかける『もののけ姫』がこれに近い。

 しかし一方で、この作品にはこれまでの宮崎駿の作品と大きく異なるところがある。それは彼がインタビューで度々言及していた「失われた可能性」が存在していない点だ。これまでジブリの主人公たち、特にヒロインは圧倒的なシステム、権力の前に立ち向かう勇敢な女性ばかりだった。立ち向かい、乗り越え、そして些細であっても世界に変化をもたらし「失われた可能性」を取り戻すような、そんな健気で強い女性たちだったが、今作のヒロインの菜穂子は彼女たちとはまるで違っていた。彼女が選択したのはいかに立ち向うかではなく、いかに受け入れるかだった。彼女にとってすでに死が避けられぬなら、あとは死に方の問題だったのだ。死からの抵抗から死の受け入れ、いきなりこんな趣旨替えをされては、宮崎駿に長年連れ添った鈴木プロデューサーがプロモートとはいえ「宮さんの遺言だ」と発言してしまったのも仕方がないと言える。そしてこの「抵抗」するのではなく「受容」するという物語のあり方が、この作品の評価を大きく二分してしまっている大きな点ではないだろうか(庵野の声に関しては言われすぎているので自分はスルーするとして)。

 なぜなら生き物にとって「抵抗」することは自然なことで、生命が脅かされたならどんな虫けらであってももがき「抵抗」するという、そこには無条件の必然性、リアリティが存在する。しかし一方で「受容」するということには無条件の必然性は存在しない。ゆえに観客がそこにリアリティを感じるためには、なぜ彼らがその選択をしなければならなかったのかという文脈が必要となってくるのだが、この物語にはその主人公たちが選択した「受容」にリアリティを持たせる文脈が不足していたのではないか。彼らが最後まで病気と戦う選択をしなかったのはなぜだろうか?結核は当時致死率の高い病気だったが、この病気から生還した人間もまた存在した。しかし彼ら、いや宮崎駿はそうしなかった。抵抗し続ける選択であっても、美しい人間の生き方を描けるにもかかわらずだ。確かに愛しい人と最も濃密な時間を過ごしたいという欲求は文脈の一つになりうるが、それが全てではあまりにも感傷的すぎるのではないか。結果として、宮崎駿の用意した文脈の一本に上手く乗ることができたならば、その人はこの物語にとことんハマることができるが、その網目からひとたびこぼれ落ちた人にとってこの作品はとんでもない駄作となってしまっているのだ。都合よく男女が再会し結婚し結核で死にかけで美しいという使い古されたツールを前面に押し出した根拠ない健気さを持つ女の横で好き勝手やっているメカマニア、そんな構図に落ちかねないのである。

 それだけではない。果たして、この物語は堀越二郎と堀辰雄という二人の人間を組み合わせた形になっているが、その必要性はあったのかという疑問も残る。片方だけを重点的に描いたほうが、より説得力を持って描けなかっただろうか。飛行機製造のシーンは間違いなく美しかった。設計図から飛行の様子、事故へ至るビジョンを二郎がイメージする演出からは、きっと並外れた天才の風景はこんなふうに広がっているに違いないと思わせ、観客にその二郎と同じ天才の視点を共有させる演出のワクワク感は、決して飛行機マニアだけでなく楽しめたに違いないし、宮崎駿の独りよがりなどでは決してないエンターテインメント性があった。だが、その天才が作り出した美しい零戦が人を殺すという苦悩もより深く描けたはずなのに、それを最後に「一機も戻ってきませんでしたが……」と片付けさせているのが、この作品が他でもない「そよ風」に落ち込んでしまっているところだ。この作品のことをファンタジーだと前述したのは、ファンタジーならば許される文脈の不足と、戦争を「そよ風」で描いた現実感の無さがあったからだ。それが結果として、間違いなく美しく崇高なものと隣り合わせになりながらも、そんな文脈の不足から物語に乗れない、遠くで風でざわめく木々を眺めながらも、自分の体には風が一向に吹いてこない人たちに対し、ひたすらな後味の苦さを残す作りになってしまっているのである。

 この『風立ちぬ』は時代と人の成長によってこれからも評価が変わり続けるだろう。受け手にも文脈があり、そしてそれは常に変化していくからだ。ある人は後々に素晴らしい作品だと言い、ある人は一時の自身の熱狂に首をひねるかもしれない。評価が良い意味で変動しないナウシカやラピュタと違い、そいういう点ではやはり宮崎駿の最高傑作だとして記憶されそうな作品ではある。

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『SHORT PEACE』/「アニメ映画」ならぬ「アニメ」

 大友克洋と日本のアニメ界気鋭のクリエーターたちが集結して作り上げた短編集『SHORT PEACE』、レイトショーで自分の両隣に座っていたのが外国人だったことからも、大友克洋の9年ぶりの新作が国際的にも注目度が高かったことが伺える。
 作品の全体的な感想としては、良い意味でも悪い意味でも自意識を欠いた作品だったというところだろうか。ストーリー的には魅せる要素は全くなく、世にも奇妙な物語(しかも最近)の方がまだ脚本がしっかりしてさえいる。2話目の『GAMBO』なんかはもうかなりやばくて、内容が幼女+淫獣+妊娠だとか、それエロ漫画で何千回やられた(同人では実にその倍々!※1)ネタだよ……、とかツッコミたくなってしまうほどだった。だが、自意識を欠いているが故に、この作品には制作者側のフェティシズムが存分に盛り込まれ、それが作品の魅力にもなっているのである。特に2話目の『火要鎮(ひのようじん)』と4話目の『武器よさらば』はそのフェティシズムの塊だといえる。
 大友克洋が監督を務めた『火要鎮』は、日本の浮世絵とアニメを極限にまで融合させた一品であり、内容は全くないのだが、とにかく純粋に「絵が動く」面白さ、美しさには思わず深いため息を漏らさずにはいられない。細部にまで油断なく動く登場人物たち、鼻が低く目の細くて小さい純日本的な顔立ちの女性も色艶やかで、ネットなどでは「なぜ日本のアニメのキャラクターは白人ばかりなのか」という海外からの指摘があるが、そんな雑音も本作の前では沈黙せざるをえないだろう。また4話目の『武器よさらば』では、この監督は本当にメカを描いて動かすのがたまらなく好きなんだなぁと感心するほどに、とにかくメカの描写に愛が溢れている。人の「大好き!」が集まればここまでのものになるのかと、ここでもまたため息を漏らさずにはいられなかった。オチは題名から中盤で予想がつくが、この作品の楽しむべきところはその描写であり決して内容ではないので、そこもまた重要とはいえないだろう。
 あくまでこれは「アニメ」を楽しむ作品であって、もし貴方が「アニメ映画」を期待して劇場に足を運ぶと悪い意味で期待を裏切られることになってしまうだろう。客を意識した作品ならば圧倒的にピクサー映画の方が優れているし、そういう作品をお望みならば公開中の『モンスターズ・ユニバーシティ』を観に行った方が損はしない。しかし、この『SHORT PEACE』はそんなピクサーのスタッフたちが鑑賞した後に、「俺たちにゃこんなの作れねぇよ……」と脱帽するであろう作品なのである※2。あらゆる不純物を排した、純度の高い「アニメ」をスクリーンで鑑賞してみるというのもまた一興なのではないだろうか。……隣の外国人寝てたけどな!

※1 偏見です

※2 妄想です
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『きっと、うまくいく』/主演の人はエミネムじゃありません

まだ先があるのか!と驚愕するくらいに楽しませてくれる。良い意味で油断も隙もなかった。拷問かというくらい映画の緩急の振れ幅の短い演出は、3時間という時間を忘れて釘付けにさせ、観劇後には忘れていた疲労感が体を襲ってきたせいで、暫く動くのに難儀したほどだった。小難しい伏線や高尚なユーモアはないのだが、ここまで圧倒的な手数の乱打を喰らっては無事に済むはずもない。
 物語のあらすじは、インドの経済発展を支えているエリート大学・ICEで、変人ランチョーが織り成す大学内での当時の狂騒と、十年後の現在で、行方不明になった彼を探すという二つの時間を交互に交えながら進んでいくというものだ。競争の激化するインド社会でずば抜けた知性と感性を持ったランチョーは問い続ける、学問とは?そして人生における成功とはなにか?インド映画といえば世界的にヒットした『ムトゥ~踊るマハラジャ』が思い浮かぶが、あれはあくまで日本やハリウッドにはない独特のノリと演出が面白いのであって、珍しいものだから評価されているという側面は否めなかったが、この『きっと、うまくいく』はシモネタ満載の学園コメディーと大人になった彼らを描きながら、インド社会のみならず、先進国が抱えている社会問題に言及し、人間のあるべき姿を描いていくという、インド映画といった枠組みに収まることのないエンターテーメントなのである。スピルバーグが三回観た上に、各国でリメイクが決定されていることからも、この映画の普遍性が伺えるだろう。
 深刻なテーマを取り上げながら欝展開に陥ることなく、それどころか観客を楽しませ最後には幸せな気分にしてくれる、まさに映画のお手本のような作品で、主演のアーミル・カーンは本国で「ミスター・パーフェクト」と呼ばれるほどの役者らしいが(44歳という年齢で大学生を演じきっていたという時点で彼の凄さが分かる)、映画そのものにも「パーフェクト!」という賛辞を贈りたくなってしまうほどだ。今後「好きな映画は?」と問われた際には、「いろいろあるけれど、ベストを一つ挙げるとするなら『3 Idiots』だね」と答える人間が大勢出てきてもおかしくはない、人々の記憶に残る名作だと言っても過褒ではないだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=LqT4ShUM3MY
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『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』/It's a Man's Man's Man's World

 男達は皆故郷を、帰る場所を失った。ピートは不法移民の友の「死んだら故郷のヒメネスに埋めてくれ」という約束のため法を犯してお尋ね者となり、メルキアデスを殺害したマイクも旅の途中、身勝手な大きい子供から大人の男に成長するものの、留守中に妻に愛想をつかされ帰る家を失っていた。そしてなにより約束の張本人たるメルキアデスに至っては、元々帰る故郷など存在しなかった。身寄りのない土地での孤独をやり過ごすため、偽りの美しい故郷・ヒメネスを胸に生き続ける流浪人、それがメルキアデスだったのだ。つまり皮肉なことに男達は、メルキアデスの存在しない故郷を探して、そして自分達の帰る場所を失うのである。文面にするとなんとも遣る瀬のない話であるが、そんな男が失う帰る場所もまた決してきらびやかなものではない。アメリカ人のメンタリティーを象徴するテキサスの国境沿い、だがT・L・ジョーンズが切り取った「アメリカ」は海外ドラマが映し出すような都市の華やかさなどとは程遠く、その乾燥地帯ではデブのババアが日光浴でその体を公衆に晒し、レクリエーションといえば白い肌のたるんだオッサンとオバハンの不倫のローテーションくらいしかなく、かつてプラムのクイーンだった女は昼ドラにハマリ、ダイエットと称して晩飯はズッキーニだとぬかす始末だった。その鬱屈したクソつまらなく、しかしリアリティのある「アメリカ」には多くの人が不快感を覚えることだろう。そしてまた、そこに残された女達も彼らの帰りを待ってなどはいなかった。ピートのセフレのメリッサ・レオは、あの愛が演技だったことをはぐらかし、マイクの女房は長距離バスに乗り、祖国にすら居場所がなかったメルキアデスは言わずもがなだ。そこには男女のロマンスによる癒しなどもやはり存在せず、ただ拠り所を失う男達の苦さばかりが漂い続ける。
 しかし、それでも尚も、あらゆる崇高さや救いなど一切ない世界でありながらも、この物語の結末は絶望に落ちることはない。旅の末、荒野の廃墟に立ち尽くしたピートは言う。
「ここがヒメネスなんだ。そうあるべきなんだ……そうだろう?」
 銃で脅され旅に無理やり同伴させられた、馬鹿な白人男の標本だったようなマイクは、一筋の涙で頬を濡らしながらそれに頷く。ピートの「should be(そうあるべきだ)」という言葉には、それほどに儚くも重くのしかかるものがあったからだ。それを人は愚かしい意地と呼ぶかもしれない、惨めな開き直りだと捉えるかもしれない、しかしマイクが涙を流さずにいられなかったのは、そしてその言葉が見る者の胸を穿つのは、それがあらゆるものを捨象した後、最後に残り浮き彫りになった純粋な男の矜持だからではないだろうか。
 男が男であるために必要なのは、財産を守る強い腕っぷしでも女を喜ばせる太い男根でもない、朽ち果てていく友に寄り添うため眉間にほんの一筋の皺を寄せる力、それさえあれば、男は荒野に立ち、ひび割れた大地に水を撒くことができるのだ。劇中一度も激情を顕さなかった男の、その顔に刻み込まれた深い陰影が雄弁にそれを物語っていた。





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『クラウド・アトラス』/ハリウッド版火の鳥……とはいかなかった。

やってくれたなウォシャウスキー……。

 半年ほど前に見た海外版の予告編で期待度はMAXだった。いくつもの時代と様々人々の行動が一つの収束地点に向かっていく描写は、まるで村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』のような壮大で難解な物語の展開を予感させてくれた(もっとも、原作者のデイヴィッド・ミッチェルは村上春樹に影響を受けたのだというが)。確かに映画の予告は予告詐欺という言葉が横行するくらいに期待を裏切るものが多い。しかし、このPVからくる物語の感触は、人生の映画に数えられるだろう素敵な作品との邂逅を予感させて仕方がなかった。いいではないか、年に数回裏切られるくらい。きっと期待を上回ることがなくとも、鑑賞後には数日は残るだろう作品の余韻に浸れるに違いないのだから……。そんな気持ちを胸にこの数ヶ月間を過ごしてきた。……まるでコールガールをホテルの一室で待ちわびるチェリーボーイの如くな!

やってくれたなウォシャウスキー!!

 もうホント、この一言ですべてが片付いてしまう。マトリックスが公開直後、様々なコンテクストでの読解が試みられたにも関わらず、マトリックス・レボリューションで明示された作品の最終的なテーマが「それでもあきらめないことが大切!」という、結局のところ松岡修造が日ごろ叫んでいるようなメッセージだったということは我々の記憶に新しいところだが、今回も彼らはニーチェの永劫回帰を素材にした原作小説の主題を、そのウォシャウスキシズム的メッセージに置き換えてしまってくれているのだ(こういう、引用や構造ばかりに力を入れすぎちゃうのは押井守の影響なんだろうか)。いくつもの時代を廻り交差する人々のカルマ、しかし壮大な物語を見終わった後には漠然とした疑問を置き去りにしたままに、自身の中に最終的には何も残っていないことにあなたは驚愕するだろう。もっと言うならば、一人数役で各時代に登場させエンドロールでその役者の明かしをする様などは『ナッティ・プロフェッサー』をシリアス路線でやっただけというお寒い批判すら免れない。

やった喃……やってくれた喃、ウォシャウスキー!

 いやいや、映画はアレだったけど原作小説は素晴らしいはずだ。PVのみならず、鑑賞後にも物語の根底にある巨大な何かの存在を感じたのは確かなのだから。きっと原作で扱っていることが壮大すぎて描き切ることができなかったに違いない。六重奏のクラウド・アトラスの意味も、各話の主人公にある彗星型の痣(ジョジョじゃあないのよ)の秘密もまだ明らかになっていない。取りあえずAmazonで原作が届くまで待とう、評価はそれからである。(まぁ、原作でも松岡修造が叫んでたらアレなんだけど)


クラウド・アトラス 上

クラウド・アトラス 上




クラウド・アトラス 下

クラウド・アトラス 下

  • 作者: デイヴィッド・ミッチェル
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2013/01/22
  • メディア: 単行本



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『変身のニュース』宮崎夏次系

 とても好きな歌の出だしにこんなものがある。
「Made a meal and threw it up on Sunday」 (この前の日曜に飯作ったんだけど吐いちまったよ)
 こんないきなりの脱力感から始まる歌は、その怠惰さのまま
「Stand by me-nobody knows the way it's gonna be 」(そばにいてくれないか、先のことなんて誰にもわからないんだ)
と、サビの部分で無責任な言葉を連呼する。しかしそんなに先のことがわからないとか言ってるにもかかわらず、ちょろりと
「Maybe I can see, yeah」 (まぁ、多分俺にはわかるかもね)
とか言ってしまう根拠のなさと無責任さ。なんとも救いようのないダメ人間のことをうたった歌に聞こえてしまうし、そこには人間の尊厳もへったくれもないように見えるかもしれない。しかしどうだろう、本当に我々に必要なのは重厚な物語による崇高な救済だろうか。それどころか、我々の日常はこのOasisの『Stand by Me』で歌われているように、しょうもなさやくだらなさによってこそ慰められているのではないか。何の変化もなければ劇もないようなどうしよもない日常に、ある日突然驚くほどの彩を見るようなそんな瞬間にこそ、人は人生の弾力ある強度を見つけうるのではないだろうか。今回紹介する宮崎夏次系の短編集『変身のニュース』は、内容こそは脱日常系のファンタジーだが、作品の世界感の中心にはとめどない「しょうもなさ」が溢れている。
 現在モーニングtwoで活躍中の宮崎夏次系は、デッサンの基礎がまるでないようなヘタウマ系のペンのタッチと独特の世界感を持っているとはいえ、正直この手の絵柄や世界感の作家というのはきょうび取立てて珍しくはない。しかし、彼が二軍誌の新人とはいえ一部で脚光を浴び始めている(書店員に本書の在庫確認をしたら、何の迷いもなく該当場所へと連れて行ってくれた)のは、その雑な絵に込められた「しょうもなさ」の情報量の濃密さ故だろう。それを知る上で同短編集に収録された『赤星くん』と『水平線JPG』、そして『飛ぶ車』のラストはとても象徴的だ。
img267.jpg
 『赤星くん』の主人公・赤星くんは、意中の女の子に自分が他の男子と同じようにスケベであることを知ってもらうために、その子の前で敢えてエロ本を買ってみせる。そこまではいいのだが、なぜかその後二人は肥大化した赤星くんの陰嚢に連れられて、虹の架かった空を二人で飛び去っていってしまうのである。活字化すると単なるバカ話だが、しかし宮崎のタッチで描かれたふたりは、服はおろか皮膚までも脱ぎ捨てて、まるでエーテル体で交流しているかのようなピュアさというか、より高い次元で繋がっているかのような趣すらあるのだ(でも基本バカ)。その彼の作風は次の『水平線JPG』でもいかんなく発揮され、精神を病んだ妹の世話をめぐって葛藤する兄弟を描いた物語を締める1ページは、人生の疲弊を味わったものにしか知ることのできないような、「しょうもなさ」を押し込めた見事な作りとなっている。img269.jpg作中に漂う「しょうもなさ」の一因には、主人公が避けがたいと思い込んでいた事態や運命が、終わってみればなんとかなってしまう程度のものだったという物語の不条理さにもあるのだが、それ以上に、第八話の『飛んだ車』に見られるように、妻を失った男が回想する在りし日の妻の描き方(なんかトレーニングボールで体をだらしなくエビ反りにしながら本を読んでいる)から、作家には技巧以上の感性が備わっていることが分かる。img271.jpg作家が切り取ったしょうもない日常の姿によって、読者は男にとって妻がかけがえのないのない存在だったということを、凡庸に美しい思い出を提示されるよりも遥かに親身に感じることができるのだから。

 宮崎は2009年にちばてつや賞で準入選を果たしている上、一部の層からも支持され始めているものの、未だ知名度の高い作家だとは言えないだろう。あまり情報がないので伝え聞く話やネットの情報を漁る限りでは、どうやらコミティア出身の作家だということぐらいである。だが、このメジャーデビュー作の短編を読むだけでも読者は宮崎には単なる引きこもりではない、半径2メートルの自己完結した世界感以上のものを表出するスキルがあることを知るのではないだろうか。手垢のついていない新しい才能との出会いに飢えている、本棚に講談社系の漫画が並ぶようなサブカルボーイには是非ともおすすめしたい新人作家だ。


変身のニュース (モーニング KC)

変身のニュース (モーニング KC)

  • 作者: 宮崎 夏次系
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/11/22
  • メディア: コミック



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『任侠ヘルパー』韓流リメイクなら監督はヤン・イクチュンで

 平均視聴率15%を記録し国際ドラマフェスティバルで優秀賞を獲得した、質と人気に裏打ちされたTVドラマの映画化なのだが、今ひとつ何かが足りない作品だった。こんなことはいちいち書く必要もないのだけれど、裏を返せばこの『任侠ヘルパー』はその今ひとつでもっと話題にもなっていただろうし名作の呼び声も高まっていたはずの作品なのである。
 草彅剛の演じる極道の翼彦一は刑務所での刑期を終えた後、入所前に貸しのあった独居老人・蔦井(堺正章)のツテで辺境の暴力団極鵬会の組員として貧困ビジネスに手を染めていくのだが、この貧困ビジネスのサクサク感というか、老人たちを次々に借金まみれにしてホーム送りにしていく彦一の外道的手腕には、居心地は悪いながらも思わず観客を笑わせずにはいられない絶叫マシーンのような爽快感があるし、欺瞞に陥った「先進的な」医療施設もビジネスヤクザも弱者を救わない中、彼らを助ける主人公の原理として任侠道を置いた点では、この作品は欧米式のハードボイルドである根拠無き(かつ悲愴感の漂う)責任感を日本で描くことに成功しているといえるだろう。『任侠ヘルパー』という題名のいかがわしさの反面、本作は実は正統派のハードボイルド映画なのである。全体的には、貧困と高齢化社会問題を何とかギリギリの嫌悪感で押さえエンタメ化している点において非常に優れていた。安易なTVドラマの映画化という先入観で毛嫌いしてはもったいない作品だ。
 しかし、タチの悪い「笑い」もヤクザの描写も地方の貧困の閉塞感も、いまいち突き抜けることができていなかったことが作品の足をひっぱていたように思える。草彅剛のチンピラぶった演技も空回っていたし、終盤はグダグダになって物語の「答えが出せていない」にもかかわらず、爽やかさを無理に演出しても消化不良で後味が悪くなってしまう。北野武のようにヤクザを描くことがもはや「笑い」でしかありえないのだという思い切りがなく、また李相日のように貧困にもっと閉塞感を出して描ききることができなかったことが非常に残念だった。これらの転じ方一つで、この作品はもっと大きく化けたに違いないのだから。
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『リンカーン/秘密の書』まぁ、杞憂だろうけど

 脚本家の沼田やすひろ氏によると、おもしろい映画の構造は13要素の黄金率に分類されるらしい。ラジオで聞き流していただけなので詳細はとれなかったが、日常→それを乱す事件→それを何とかしよう決意する→しかしピンチに陥る→そこを仲間と乗り越える→成長したり新しいやり方を始める→再びピンチが訪れる→それを仲間抜きで乗り越える→解決(結局9しか覚えてないけど)というもので、そのフェイズがさらに細かく13フェイズに分かれているのだとか。
 そしてこの『リンカーン/秘密の書』はこの黄金率が実によく当てはめられていた作品だった。第16代合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが、実はヴァンパイアハンターだったという、もっとも尊敬されている米大統領だからって祭り上げりゃあいいってもんじゃないだろという劇場予告へのツッコミはどこ吹く風、「おいしいもの」×「おいしいもの」=「とてもおいしいもの」というクソ安易な発想が、この黄金率に組み込まれることによって優等生的エンターテイメントにうまくまとめ挙げられているのである。おそらくこの法則に当てはめれば、ヒトラーが復活したのでオバマが各国の首脳と星条旗の元に集って銃を手に取り戦う、といった無茶ぶり設定であってもある程度観られるものにはなるのではないだろうか。また『ウォンテッド』で監督としてハリウッドデビューしたティムール・ベクマンベトフの創り出すアクションシーンもこの作品の特筆すべきところだろう。彼の撮るマーシャルアーツは、一時流行ったカンフームーブと違い、無国籍風でかつアニメやマンガ臭くもなく、どんな映画に組み込んでも作品を引き立てるのではと思わせるような、優れた調味料の役割を果たしているのである。
 ストーリーや演出など全く隙のないこの作品だが、しかし鑑賞し終えた後に一つの不安がよぎってしまった。確かに最近のハリウッド映画は完成されている。しかし、この成熟は次には何の進化に繋がるのだろうか。映画というものが、完成という行き詰まりに直面しつつあるような気がしてしかたがなかった。
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『おおかみこどもの雨と雪』中の人は多分もっとしたたかですぜ。

 前作『サマーウォーズ』で一躍日本のトップアニメーターとして認知されるようになった細田守だが、この『おおかみこどもの雨と雪』もまた、7月から長期に至るまで上映され続けているということを鑑みれば、その評価が非常に高いということがうかがい知れる。主人公・花の愛した男が実は狼男で、彼との間に設けた子をシングルマザーとして田舎で育て上げるという趣旨は全作同様、田舎の人々の温かさという回帰的な羨望や、家族という社会における最小のコミュニティをモチーフに扱ったものだといえるだろう。私的には、映画を観始めて数十分で「これ賛否両論、どころかアンチと信者に極端に分かれそうだ」という感想を持った。それほどまでに、肯定要素と否定要素がこの作品には混在している。
 否定的な意見として、ディテールを盛り込むことによって起こる物語の破綻が挙げられる。奨学融資バイトして苦学生するのは良いとして、クリーニング屋のバイトで仕送りなしで生活できるかどうか疑問であるし、信念持って勉強してるのに狼男という圧倒的マイノリティと避妊もせずに子供を作るし、ワープア街道まっしぐらなのに二人目までつくるし絶滅種の父親がゴミ収集車で片付けられるし引越し屋のトラックの運転手で長期間親子三人が暮らしていける貯金なんて残せるわけないし、休学した学校どうしたのか気になるし(休学中も学費かかるし、中退は奨学金一括返済ですよ?)予防接種とか人間でも犬でもどっちかでやっとかないとマジでプロプレムだし田舎の人々の描き方が紋切り型だしあんなでっかいボロ屋を一人でキレイにできるわけないし野菜作りを失敗しているのって絶対長期の出来事だからそのあいだ生活どうしてたのか疑問だし新しく始めたバイトが安すぎるし12年間で子供たちを「育て上げた」って言うには短期間すぎるし、後どうしようもなく宮崎あおいの声から「森」の香りがするなどなど、ケチをつけ始めたら際限なく出てきてしまう。ディテールによってリアリティが失われているのなら、それは肯定されるものではないし、そういう面ではこの物語は失敗している。だがそういった批判を踏まえた上でも、少し視点を変えれば逆方向には細田守の理想が、冒頭の質感を感じさせる花々のように咲き誇っていることを観客は知るだろう。
 主人公・花はひたすら受け入れ続けてきた。狼男という夫を、その血を受け継いだ子供たちを一人で育て上げるという道を、あらゆる困難を笑顔一つで受け入れた。そしてこの花の「受け入れる」という態度に、観客は細田守の人生観や世界観(正しい用法での)を垣間見ることができたのではないだろうか。社会にしろ自然にしろ、個人はその大きな渦にただ飲み込まれるしかない。しかし、そこで人が最初にして最後の強さを発揮できるとしたら、それは「受容」という強さではないだろうか。そして、父親が生前に言った「子供たちを自由に生きさせたい」ということの終着点に、雨は受け入れたいものを探し出し、雪は受け入れてくれるものと出会ったのであるならば、まさにこの父と母はその生き方と残した言葉によって子供たちを導いたのだといえる。
 終盤に、森に生きることを選んだ息子を花は「私はまだあなたに何もしてあげられていない……」と言って引き留めようとする。だが既に花は「受容」という、もっとも母として強い愛を子供達に与えていたのではなかっただろうか。この物語における愛とは、与えることではなく世界の受容の仕方だったはずであり、そして既に息子は母からそれを学んでいるのである。そこが人の世であろうと自然の中であろうと、その愛さえあれば、きっと子供達は母と同じく花の咲く丘で誰かと寄り添うことができるに違いないのだ。
 抵抗や変革を行わず、しかし決して諦めもしない。「受容」という静かな生のあり方を大自然を使い躍動的に描いた今作、アニメーションがどうしようもなく「絵を動かす」というメディアである以上、これまでのアニメは「動き」を魅せることに終始するしかなかったが、細田は「受容」からなる「佇まい」をアニメで魅せることに成功しているのである。この技法を以てしてこの作品が革命的であるという評価は頷けるものがある。ただ、二時間弱という尺の中、駆け足で物語を進める必要があったためか、出来事の「結果」ばかりが先立ちそこに「動機を持った人間」の、特に「大人」の不在を感じざるを得なかった。そこが今ひとつ作品を楽しむ上で壁になっていたことが残念だ。


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